朝。起きる。電気ケトルを台座から手に取る。ふたを開け、中に残っている水を台所の流しに捨てる。水を出してケトルの中に注ぐ。水を止める。ふたをする。台座に置き、スイッチを入れる。
お湯が沸くまでのあいだに、パンを焼くことにする。袋の中からパンを取り出す。トースターのフタを開ける。パンを入れ、フタを閉じる。タイマーを回して加熱を始める。
お湯が沸く。電気ケトルを台座から取り上げる。台所に置く。紅茶の缶からティーバッグを取り出し、カップに入れる。お湯を注ぐ。少し待って、ティーバッグを取り出して捨てる。角砂糖を袋からひとつ取り出して、カップに入れる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。牛乳をカップの紅茶に注ぐ。牛乳パックのフタを閉め、冷蔵庫の扉を開き、牛乳パックを収め、扉を閉じる。紅茶が入ったカップを手にとり、すこし飲む。温かい。
紅茶を淹れることができたので、パンを焼くことにする。袋の中からパンを取り出す。トースターのフタを開ける。
す で に パ ン が 入 っ て い る。
…ということを今朝やってしまった。実は昨日の朝もまったく同じことをやってしまった。以前にも書いたけれど、これは「認知症のかけら」なのだろうなとおもう。
ふしぎなのは、なぜわたしは「トースターにパンを二度入れようとする」というミスをしつつ、結局無事パンを焼いて食べて、いま大学にいることができているのか、ということ。
それは、ミスをリカバリーすることができたからだ。ミスのリカバリーにはいろいろな種類があるけれど、今回の場合は「トースターに既にパンが入っていた」ということを自分のミスだと認知することができた、ということ。そのうえで、何をすれば良いのかを判断することができたこと(今回の場合は、出しかけた新しいパンを袋に入れ直すだけでよかった)。
この一連の認知・判断・行為が成立するためには、「先にパンを入れたのも自分だった」という理解が不可欠だった。このことを理解していたからこそ、「あ、さっきパン入れてたやん。大丈夫か自分」というふうにリカバリーを開始することができた。
上記の「お湯→パン→紅茶→またパン」という工程において、わたしは確かに時間の流れのなかで行為をしている。けれども、紅茶を淹れ終わったあとに何をするかという判断が脱臼してしまっていた。時間は流れているけれど、工程の流れは乱れている。
工程の乱れが判明したのは、開けたトースターに「すでにパンが入っていた」のを認識したときだ。このとき、わたしはリカバリーを始めざるをえない。そのときのわたしの工程の流れは、「トースターは空であるはず」という予測を自然と立てていたが、それが失敗したからだ。そこでリカバリーを開始するが、それは自分の一連の行動を数分前の決定的瞬間まで順次辿って解明する、というふうには行われない。そのとき生じているのは、むしろ瞬間的な「あっ!」だ。一瞬のうちに、「パンを焼いたじぶん」がいまの自分に寄せ戻され、取り戻される。そして、「パンを(もういちど)焼こうとしたじぶん」が破却される。
大きな時間の流れのなかで、複数の細かな「じぶん」の流れが消長していた。それらの細かな流れは無理なく連節していたはずだが、ミスが生じていた。しかし「紅茶を淹れ、パンを焼く」という局所的な目的のなかで、ある小さな流れは破却され、ある小さな流れは復権した。こうした操作が可能であるのは、複数の細かな「じぶん」が、どれも「じぶん」でありつつ、朝食を食べるという大きな目的のもとでの「じぶん」に対して階層関係を持っており、その関係のなかへ細かな「じぶん」のひとつが吸収される、という仕組みがあるからだろう。別の言い方をすれば、さまざまな「じぶん」が、時間のなかで、ある構造に規定されつつ、わりと自由に浮沈している。この仕組みがあるからこそ、ミスも生じるし、そのリカバリーも可能となる。
しかし「じぶん」の外部にまず時間の流れがあるというよりは、おそらく「じぶん」と「自由」の構造が時間の流れを作り出してもいるのだろう。
さて、もしわたしが本当に認知症だったら、どうなっていただろうか。おそらく「パンが既にトースターに入っていた」ということを、上記の「じぶん」の構造のなかで捉え直すということができないだろう。そうすると、「誰かが勝手に入れた」と疑い始めたり、際限なくパンを焼き続け、食べ続けることになるかもしれない。
それはなかなか、当人にとってもつらいことだろうな、とおもう。また、上記の時間や自己や自由の構造といったことを、他人が外から手助けして再形成することはなかなか難しいようだ。これは、ある患部やディサビリティに直接手を添えるというタイプの「ケア」と同じふうにはできない。