しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

見えないからだ

じぶんのからだはどこにあるのだろう、とおもう。

からだはまさにここにある。見えていて、感覚があり、わたしが移動するとき・居座るとき、眠っているとき、わたしが存在しているところにわたしのからだがある。だから大雑把な座標としては、大雑把な物体としては、わたしのからだはまさにここにある。

 

しかし物理的なサイズや質量といったことを離れて、からだの機能や、自分との関係についてかんがえてみると、不可視の部分があることにきづく。

もういちど検討してみる。からだはここにある。手が見えている。指先でキーボードの表面の感覚、打鍵時の動きの感覚をとらえている。その手をいったん止めて、手や腕や胴体の「中身」がどこにあるかさぐろうとする。もちろん、皮膚の内側には骨や筋肉や血がある。解剖したことはないけれど、メスを入れればそれらが明らかになる。そういった意味での中身は、さしあたり不可視だけれど知識としては可視的である。

しかし指が自在に動く、食べ物を消化する、新陳代謝があるといったことを探ろうとしても、その仕組みがありありと明晰になることはない。指がキーボードを打つ。骨、筋肉、関節が精妙に連携し、その運動を支える循環器系の働きがあり、意識や神経の作用がある。丁寧に分析すれば、筋肉が動く感じや、肘に軽く体重をかけている感覚が意識にのぼってくる。だがしかし、一個ずつの筋肉の細胞の働きや、神経細胞の信号の伝達まではわからない。静かな観察は皮膚の内側のある程度の「深度」までしか届かない。しかしそれらの機能は確実に存在している。探ることができないのに。

 

きのう私は連日の資料作成で疲労困憊していて、日中に何度もベッドに寝転がって仮眠をとった。仰向けになり、布団をかぶり、腕と首の力を抜く。途端に、首や腰に軽い痛みが走り、意識的にゆっくり呼吸を続けると全身にじわーっと血流か何かがめぐり、わずかずつ疲労が解除されてゆくように感じる。からだの中身まで感じている気になる。

しかし実際のところ、内臓や血流や酸素がからだのなかでどのように作用しているのかはわからない。わからないけれど機能している。昼食の消化と吸収がすすみ、栄養が全身にめぐり、疲労物質が分解され、爪や髪が伸び、神経細胞が脳で配線を組み替えてゆく。その細かな様子はどれだけ観察してもこちらには現れてこない。

たとえばそれは、ヨットのうえから船乗りが波や潮の流れを見ることはできるけれど、深海のしずかな流れは感知しえないのと似ている。ヨットの船乗りはわたしの意識で、波や潮の流れは意識に上る身体の外見や動作である。そうやって観察できる部分はたしかにあるけれど、そのすぐ下には、意識がどうやっても観察することのできない深度が存在している。

その深くて見えない部分は、いったいどれくらいの「サイズ」であるのか。さきほど書いたように、この身体の物理的なサイズや質量は明確である。しかしからだの見えないはたらきの総量は量り取りようがない。場所もわからない。ごく単純に言って、わたしは肺と横隔膜がからだのどこにあるか感覚的にわかっているけれど、肝臓についてはさっぱりわからないままだ(解剖学の教科書を見てもそれは解決しない)。解剖学的な物理的位置ではなく、機能という点においては、わたしたちの肝臓や十二指腸が別の異次元宇宙に存在していて、体内のある部分とワープ空間によって接続されていたって、さっぱり感づかれないのである。

ものを食べて排泄する。感覚が追跡できるのはその両端の部分だけである。それ以外の時期、食べたものはどこに消えたのだろうか。これは大いなる謎である。「胃もたれ」や「腹痛」といった仕方でときたまその存在が知らされるけれども、わずかなエコーにすぎない。真っ暗なトンネルの両端部分がほのかに照らされているだけで、嚥下したものたちの行く末は完全に謎である。完全な、完全な、どこにあるのかわからない、意味不明の闇があり、その表面のわずかなくぼみにのみ意識が存在している。意識が照らし出している部分については明晰に「ここ」があるけれど、それ以外は完全に波の下である。