しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

サイズアウト・メモリーズ

 新生児用のオムツが1パック余りそうだからもらってくれないか、と妹から連絡がきた。妹の第三子は、わたしのところの子どもの2週前に生まれた。手元の新生児用オムツは体重5kgまでである。断った。うちも、新生児用のオムツを使い切れるかギリギリのレースに入っている。数週間前に軽い気持ちで買い足したが甘かった。こちらの見込みを上回るペースで成長している。平均すると1日50グラムずつ増えている。数日前に測った体重が4.9kgだったので、すでに5kgは越えているだろう。パンパースの「はじめての肌へのいちばん」、高かったのに…。

 サイズアウトが始まりつつある。退院時の写真を見ると、服の袖から手はちょっと見えているだけ、足はカバーオールの中に隠れている。いま同じ服を着ているが、手も足もにょっきりと出ている。

 妻によると、膝の上に座らせているとお尻で留めたカバーオールのボタンがパチパチ弾けて外れたという。北斗の拳かよ。

 着られていたものがどんどん小さくなって、新しいサイズを買わなくてはならない。え、もう入らないの?というこの驚きはあと15年ほど続くのだろう。

 

 体重増加は抱っこ時に直接感じる。「おとといより重たくなったな…?」と数日ごとに感じる。抱き方も徐々に変わる。前回(4/20)の「背中スイッチ」記事では、片手の指先をこどもの首の裏に…といった記述をしていたけれど、もはや指先では支えていない。

 なにより、抱えたときの「むっちり感」がちがう。新生児期は小さくてぐんにゃりしていて、ぎゅっと抱き込んだらこわれてしまいそうで、丁寧に丁寧に抱え込んでいた。いまももちろん丁寧に抱っこしているけれど、全身からむっちりの厚みを感じる。初雪とマシュマロの中間のようだったほっぺたは、変わらずやわらかいけれどもゴム毬のような弾力をもっている。ふとももはちぎりパンと化した。

 ベッドから抱き上げるときやベッドに置くときの所作も微妙に変わる。身長は1ヶ月で5cm伸びた。以前はそのまま置いていたのが、足が引っかかるので腕をクレーンのように持ち上げ直して置いたりする。こどもはからだ全体で成長しているが、こちらもからだ全体でそれを感じ取って対応している。服が変わり、姿勢が変わり、からだが変わり、そうして抱っこというゲシュタルトは維持されている。

 

 こうした目まぐるしい変化のなかで、1ヶ月前の抱っこの感覚がもう思い出せない。当時の写真を見るとなんとなく思い起こせないこともない…のだけれど、ありありとという感じではない。とにかく現在の抱っこの感覚がつねに強烈で、過去をのんびり思い出す余地が無いようだ。

 それはどこかさびしい感覚でもあるけれど、他方で「忘れてしまった」というかんじでもない。これは独特の体験である気がする。1ヶ月前の体重や抱っこの感覚を思い出すことはできないけれど、それは印象が抜け落ちたり忘れ去られたりしたのではなく、お互いのからだに深く沈殿している。あるいはわたしと妻の会話のなかに確実に積層している。その沈殿をたもちつつ、いまの抱っこをしている。「重いなぁ」と感じるとき、過去の「そこまででもなかった重さ」や、いまはもうしなくなった抱き方の記憶が、意識にはっきりとは浮上しないけれどもなお活きている。

 とはいえやはり、思い起こせないことはわずかなさびしさを感じさせる。1ヶ月という時間のあまりの濃密さ。するといま現在のだっこの感覚も、1,2ヶ月先にはもう思い出せないのだろうか。それはやっぱりさびしいな、覚えておきたいな、という感覚が強いほど、1,2ヶ月先の「現在」はより強固になり、いまの記憶を深く沈殿させるのかもしれない。思い出せない積み重ねにからだが支えられていることに、かすかな、透明な満足をおぼえる。