しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

遠すぎた乳首

新生児と1ヶ月過ごしていて印象深いことの一つに、かれの身体の動きの多くが「反射」によって支配されていることがある。

 


上記のサイトに多くの「原始反射」が載っている。このうち、「手掌把握反射」「モロー反射」「口唇吸啜反射」は、日常の育児のなかで常に起きている。

 

とくに驚くのが吸啜反射で、これはとても強力である。

どれだけ泣きわめいていても、口に哺乳瓶や乳房の乳首がすぽっとハマると、全ての行動をストップして全力で吸い始める。ばたついていた手足も止まり、手はきゅっと胴に引きつけられる。

 

面白いことに、吸啜反射が始まるのはあくまで口の中に乳首が入った瞬間であって、そのぎりぎりまで手足はばたばた動いている。スイッチが入るまで吸啜も始まらない。

大人の感覚では、母乳やミルクを「欲しい」のであれば、目や手で乳首の存在を確認し、自分の口との距離・位置関係を測り、口に乳首が入るように姿勢を調整してゆくことになるだろう。言い換えれば、乳首を、すぐ近くの未来において自分に栄養や快を提供してくれる対象としてしっかりと捉え、乳首と口唇の接触というその未来の一点に身体と意識を「流し込んで」ゆく。これはわたしたち大人が日常生活のなかで、コップを手にとって水を飲む、靴に足を入れて履く、ドアノブをひねって開く、だれかに話しかけるといった場面で行っている当たり前の所作である。

新生児はそうではない。目の前にある乳首を把握せず、口唇のスイッチが入って初めて吸啜に切り替わる。吸啜から母乳やミルクが喉に流れ込むまでの間にも確かに時間的なラグはあるが、動作としては現在の厚みのなかに収まる。つまり反射はつねに「現在」の動作であり、じぶんの動作をそこに投企する未来的な対象として周囲のものを知覚することはない。

だから目の前に乳房と乳首があっても、「そこに目掛けて」という動作は起こさない。手をばたばたさせて、むしろ自分の手が邪魔になっている。お腹が空いているので手を引っ込める、という目的的な行動は一切無い。動かしている手が口の中に入り、必死に吸い付くが何も出てこないのでまた泣く…ということを繰り返している。大人が上から見ていると、すぐそこに乳首があるのになんとも遠いことであるなぁ、とおもう。そして運良く(?)本物の乳首が口に入ると、全力で栄養を受け入れる。

 

このように「反射」に強く支配された身体で生きているということは、つねに「現在」のなかで生きているということである。また、自分の身体器官を通じて対象に「近づく」「近づける」「選ぶ」といった動作が無いため、実存空間上の「へだたり」もほとんど無いのだろう。

現在のみで生きているということは、自分の体験している世界に遷移が無いということでもあるだろう。「泣きわめく」モードから「吸う」モードへの切り替わりに、自分の意志や時間感覚や物語が介在しない。ある現在から別の現在へ、秩序なく切り替わってゆく。異なる映画のぶつ切りのフィルムが無作為につなぎあわされたような世界を体験しているのかもしれない。

 

実のところ、大人の生活や身体においても「反射」は間断なく生じている。瞳孔の収縮、鳥肌が立つ、せきやくしゃみ、むせること、あくびなど、わたしたちの身体に起きていることのほとんどは「反射」かそれに近い出来事だ。「鳥肌」や「くしゃみ」がつねに突然の「現在」の現象であることからもわかるように、この点で新生児の身体と大人の身体はそう違わないはずである。しかし、それにもかかわらず大人は一般に自分の意志によって身体を支配し、遠近の未来と過去を捉えたうえで、現在の内実をみずから豊かにしている。いわば意識と身体の内部に反射を統合し、全体をゆったりとした時間のなかにより合わせている。「目の前のコップを手に取り、コップのふちを口元に近づける…最中に花粉症のためにくしゃみが突然出てしまう」といったことも生じうるけれども、その場合も以前の動作をいったん背景に退かせてくしゃみを鎮めたあと、元の動作を再開することができる。目的と行動の時間の流れが乱れても、整え直すことができる。

 

おなじ生き物であるのに、この違いは不思議なことだとおもう。医学的にはこうした原始反射が消失すると、手でものを掴んだり歩いたりがいよいよ始まるそうだ。つまり意志、目的、未来、空間が生まれ始める。しかしそうした実存の立ち上がりの一歩手前に、反射、現在、ケアという別次元のものがある。これはなぜなのだろう。

最後に、新生児に未来は無いと書いたけれど、泣き声を挙げて親に抱き上げられるまでの流れには明確に予期と不安が生じている。反射と意志の中間には、こうした愛着関係があるのかもしれない。