しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

背中スイッチとダンス

 「背中スイッチ」ということばがある。誰が発明したことばか知らないけれど、臨床的な強度を持ったことばだとおもう。体験に裏打ちされていて、無駄が無く、ユーモアがある。「背中スイッチ」と日々戦うひとは、この単語を見るだけでその辞書的な定義だけでなく自身の育児体験をありありと思い浮かべることができる。その戦いの経験を持たないひとも、軽い説明や文脈を加えられるだけで、少なくともおおむねの意味を捉えることができる。

 ここ2週間ほど、背中スイッチと戦いつつ、その核心は何であるのか考えていた。

 この語をそのままに理解するならば、背中がベッドに触れることによって、腕のなかで寝ていたはずのこどもがぐずりだす(スイッチが入る)ことである。しかしもうすこし丁寧に体験を描きなおしてみると、スイッチの具体的なありかは必ずしも「背中」ではない。以下、あくまでわたしとこどものあいだの体験に限定される検討であるけれども、スイッチの「本体」はむしろ頭の裏から首筋にあるようだ。まず、背中からお尻を支えていた片腕をベッドに置いてずらしつつ抜く。この時点では泣かない。次いでもう片方の、首の裏を支えていた手指を抜く。このとき、この手指の甲はベッドに接していて、手のひらの側はこどもの頭の裏をじかに支えている。背中スイッチの勝敗はまさにこの「首筋ジェンガ」に懸かっている。うまくジェンガを抜いてそのまま寝てくれるのは10に1である。うまく指を首から抜いても、45秒ほどでぐずりだすことも多い。時間差背中スイッチである。

 しかし、背中スイッチの本体が首筋にあるという捉え方もさほど正確ではない。ベッドに近づいて両腕の高度をわずかに下げた瞬間にぐずり出すことも多いからだ。加速度計や慣性航法装置が体内にあるのではと疑っている。こうした場合、「はい、そろそろベッドに下ろし……下ろしませ~ん☆」という動作を反復することになる。

 妻はまっすぐすとんとベッドに下ろすのではなく、左右にゆらーりゆらーりと揺らしつつ徐々に高度を下げ、最終的にベッドに着地させるという妙手を編み出していた。わたしはこれを「秘剣・木の葉落とし殺法」と名付けた。産院に入院していたときから身につけていたようである。体重が一日平均40グラムずつ増えている現在、この秘剣をいつまで続けられるかが課題である。

 つまり、ベッドに背中や首筋が触れることが核心ではなく、両腕に抱かれている状態からベッドに移されること全体が試練である。すると、なぜ・どのように、こどもはベッドより抱かれている方を好むのか、が問題となる。

 単純に考えれば、こどもにとってはベッドに寝かされるより保護者の腕に抱かれている方が心地よいから、ということになるのだろう。しかし、何がどう心地よいのかがわりと謎である。ベッドが硬いのがいやなのかと考えてクッションを置いたが効果はほとんどなかった。一方、膝の上に大人用の抱きまくらを置き、そのうえにこどもを寝かせるとスイッチはあまり入らない。あぐらをかいた膝のうえに載せても大丈夫だった。ベッド上のクッションと、膝の上の抱きまくらと、柔らかさの点ではそこまで変わりはないはずである。しかしモノのうえに置かれることと、こちらが体重をずっしり感じる状況で抱えられることをこどもは区別する。

 おそらく、こどもの身体の微妙な動きや重心の変化に、こちらの指や腕や膝が追随して動き続けることが核心にあるのだろう。すばる望遠鏡の鏡面を支えるアクチュエーターのようなものか。

すばる望遠鏡 大きな鏡を支える細やかな技術 | 科学コミュニケーターブログ

 

 触れながら支えている、触れ続けている。その感覚がじかにお互いの肌に伝わっている。こどもはそれがわかっている。この接触はタオルや服を途中に挟んでいても成立する。この接触感覚が失われるとき、スイッチが入る。
 この接触感覚は、さらに拡大して言えば、身体的接触でありつつ親からの注意力の維持と言えるかもしれない。昼間に抱っこをしているとき、こちらの集中力が途切れてテレビを見たり他のものに意識を向けた途端、ふぃふぃとぐずり出すことがある。それはこちらの視線が移動したことをかれが感知するだけでなく、こどもを抱いている腕や指先の動きの繊細さが消えること、全身で注いでいた集中力が弛緩することが伝わってしまうのだろう。抱っこの最中、わたしの両腕のひじの内側から指先までがかれの背中や首筋に沿い、またこちらの腹とかれの脇腹も接している。じわりと高い体温が伝わってくる。顔はときどきかれの表情をうかがう。こうした全身のやわらかな集中が、こちらの都合で途切れる。それは全身の微細な動きの統合が一挙に崩れる感覚としてこどもには感知されるのかもしれない。このときスイッチが入る。

 反転して見てみると、こちらからの接触や注意の集中をこどもは全身全霊で受け止め続けている。抱っこするという行為はおそらく、この相互の注意の差し向け合いによって成立している。こちらが一方的に抱っこしているつもりでいるけれど、こどもの側からの受け止めがなければ抱っこは続かないのかもしれない。この点で抱っこは二人一組でのダンスに似ている。お互いの接触感覚と注意の差し向け合いのうえに、実際のダンスの繊細な動作が成立し、息を合わせて踊る二人組がそこに現れる。こどもが腕のなかで寝息を立てているときでさえ、抱っこは静かなダンスである。