しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

首よ座れ

新生児は首が座っていない。知識としては知っていたけれど、実際に子育てが始まるとなんとも言いようのない驚きを指先や手首に感じている。

首が座っていないのに、首を動かそうとする。何よりこのことに驚いた。座っていないなら安静にしてくれていれば良いのに、子どもなりに自分が求める方向へ首を傾け、回そうとする。そのたびに、オットット、ヨットット、とこちらから手を回して支えなおすことになる。支えがなければ、そのまま「かっくん」と頭が重力に従って倒れ込む。これはさすがに怖い。これまで背中側に頭が派手に倒れるような「かっくん」は起きていないが、腹側に頭がすこし倒れ込んで額を妻の胸元にぶつけることがあった。どの方向にでも「かっくん」が起きうる。

特に退院直後はわたしは抱き方自体に慣れておらず、腕への重心の掛け方も下手で、そのうえで座らない首を支えるのに指先が右往左往した。片腕はお尻らへんで体全体の重心を支え、もう片腕の手首や手のひらで首まわりの重心を探して支える。ここにさらに首の動きへのサポートが必要となるので、手があと1本か、指がもう何本か欲しくなる。

このころ、ウクライナ軍の兵士が小型のドローンのカメラの旋回装置を指でくりくり回している映像を見て、「いやもっと首を支えてあげたほうが…」と思った。もっとも睡眠不足だった時期のことである。

 

首が座っていないのに、首を動かそうとする。これが問題なのであって、首が座った状態で生まれてくるか、首が座るようになってから首を動かし始めてくれれば良いのだけれど、現実はそうではない。

子どもにとっては、それでも眼と首を動かそうとすることにある種の「意味」があるのだろう。生まれた直後から、子どもの世界はぐらぐらぐんにゃりしている。そのカオスから、眼と首が動き始め、後に意志や目的と呼ばれる実存の軸がすこしずつ生まれ、身体や時間がそこに統合されてゆく。ぐらぐらぐんにゃりのカオスから、すこしずつすこしずつ意志の軸、運動の方向性が育ってくることが肝要なのだろう。さいしょから目的を持って生まれてくる子ども、ある日とつぜんカオスから目的が出現する子どもがいたら、それはそれで不気味である。

 

このようなことをこの2週間ほど考えていたのだけれど、一昨日ごろから首を手前にやや持ち上げる動作をし始めた。さらに昨日は、手前にかっくんとなりそうなところを自分の首の力で支えなおすような動作をみせた。また、これらと同調しているのか、今朝はベッドサイドに立っている妻の姿をじっと眼で追っている。子どもの身体から、急速にぐらぐらぐんにゃりが縮小しつつある。

首さえ座ればこちらの育児の身体動作もかなり変わるはずで、とにかく早く首よ座れと念じながら抱っこしている。のだけれど、このような変化の激しさを体感すると、もうちょっとゆっくりでもいいのになともおもう。成長は嬉しいが、同時に惜しみがある。