しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

父親であろうとすることの「簡単さ」

 こどもが産まれた日、じぶんは父親になったんだな、良い父親でありたいな、とおもった。ただ同時に、父親であろうとすることはとてもラクで、スムーズで、簡単なのだな、とも気づいた。この「簡単さ」はあやういと思った。

 

 「父親であること」を「父親として社会的に期待される役割を果たすこと」と言い換えるならば、そうした役割を果たすこと自体は簡単ではない。そうした父親役割とは、たとえば優しくあること、力強くあること、安定した経済力を家庭に提供し続けること、道徳的・倫理的指針を子に示すこと、適切な教育や学習の機会を保証すること、妻やそれぞれの親族と良好な関係を保つこと、家族の健康と安全を保つこと、などがある。

 これらの良識的で社会的に期待される役割を十全に果たすことには、当然にさまざまな苦労が伴うし、だれもが完璧に達成できるわけではない。簡単ではない。

 わたしが危ういと思ったのは、この「容易でない父親役割」の規準をじぶんで模索する必要がないのだ、という点である。上述した一連の「~~であること」は社会が既に用意してくれている。正解がすでに揃っている。あとは自分をそこにはめこむだけである。このとき、この既成の「父親役割規範セット」そのものは疑っていない。この既成の役割規範セットをいったん着込んだなら、あとはその内部で努力したり失敗したりすれば良いことになる。父親であることはたいへんだけれど、その「たいへんさ」のなかに入ることは簡単なのだ。正答が巻末に揃った問題集を買うのに似ている。

 既製の役割を着込むことがなぜ危ういことなのか。それは、他の社会的な役割に接続して、抜け出せなくなるからだ。上述の「優しくあること」「家族の健康と安全を保つこと」などの一つずつの規範は、それだけ取り出すならば悪いものではない。ただ、これらの個々の規範がセットになって「良き父親」という役割になる。そして、個々の規範を部分的に共有する他の役割と互いに重なり合ってゆく。たとえば「男性」「社会人」「長男」「研究者」「1980年代生まれ」「日本人」「納税者」「市民」といった役割である。「男性として社会的に期待される役割を果たすこと」「長男として社会的に期待される役割を果たすこと」は、「父親として社会的に期待される役割を果たすこと」と完全に合同ではないが、部分的に重なり合っている。そのため、既製の「良き父親」役割を引き受けることは、これら「長男」「男性」「社会人」といった役割を引き受けることと連動してしまう。正確に言うと、「長男」としての理想的な役割を実際に果たすかどうかは別で、その役割を構成する規範セットに合わせる・反しているという仕方で行動が自他に評価されるということだ。

 特に出産・育児に関してはさまざまな社会保障・財政的補助・労働条件の保護が即物的に組み込まれている。こうした実利を享受するためには、多重化した役割群を丁寧に着込むことがほぼ前提となる。「イクメン」というフレーズがあまり流行っていないのも、この語がけっきょく既存の道徳的ネットワークを肯定・強化するものに過ぎないと感づかれているからではないか。

 こうして、新たな役割をすんなり着込むことで、役割と規範のネットワークがいよいよ密になる。そのネットワークは普段は隠れており、個別の場面で表面化すると「しがらみ」などと呼ばれる。いったん適応してしまえば、その緻密な道徳的ネットワークのなかで生きることは楽である。理想の父親、理想の社会人、理想の男性として振る舞い、あるいは理想の父親・社会人・男性として振る舞えないことに苦しめば済む。では、この子にとって、そうした社会は幸福な場所だろうか。社会である以上、なんらかの役割と規範は常に存在する。ただ、そのネットワークが緻密すぎるのはやはり生きづらいようにおもう。あるいはその道徳的ネットワークにこの子が過剰適応すれば実利的な幸福を得ることができるだろうが、それは適応できない他人の不幸と表裏一体である。

 こうした社会的役割との距離感をどうやって測り、調整してゆけばよいのかよくわからない。子どもとの「ケア」の関係にヒントがあるのかもしれない。そのこともいずれ書いてみたいとおもう。