しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

不安と安心

 こどもの表情や雰囲気を観察している。

 生後2週くらいまで、大きく分けると「不快」「不安」「無」の3種類の表情を見せていた。「不快」は空腹時やお腹が張っているときなど、「不安」はベッドにひとりで寝かされて親が見当たらないときなど。

 不快と不安の表情を完全に切り分けることは難しい。不快も不安も昂ずると派手な泣き顔になる。ただ、「不快」の場合は声を上げて泣き叫ぶという状態にすぐに移るのに対して、「不安」は「そこに放っぽかれている」状態をどうしようか、どうしたらいいかわからないという宙ぶらりんの状態がある。

 さて不快・不安と対になるのは、ふつうは「快」や「安心」である。たしかに「ごきげん」や「心地よさそう」な表情を見せるときもある。しかしそれらは一瞬のことで、つまり親がやや無理にそうした表情を読み込んでいるだけであるとおもう。むしろこの時期は、不快・不安がただ無い状態としての「無」の表情・雰囲気を示していた。

 この「無」を説明するのはやや難しい。無表情ではない。虚無的な表情でもない。かといって、心地よさや喜びを示すのでもない。ただただ苦痛が無い状態であり、すこやかで安穏だが、それを求めているのでも抱え込むのでもない。たんにそれを受け取り、そのままでいるような表情をしている。

 さて3週目を過ぎて、この「無」がやや薄まり、「安心」と「好奇心」が増えてきた。たとえばベッドで一人で寝ていて、ぐずり始めて手をぱたぱたかき抱くような仕草を見せる。わたしはこれを不安と理解する。そこでわたしが両手を伸ばし、かれの首の裏と背中に手を差し込んで抱き上げようとする。その瞬間、こどもはかすかに、しかしはっきりと、不安が解消される近い未来を自分で確認し、自分が抱き上げられることを理解しつつ、愉悦の表情を見せる。不安の声を上げたことが報われつつある…抱き上げられた…報われた、という表情である。

 また、妻がかれを抱き上げるのを観察していると、手元から胸元に引き上げられるときに「安心ゾーン」に入るのがわかる。妻の首の下から腹部にかけて暖かな雰囲気の空間があり、そこに自分が取り込まれるときも「安心」の雰囲気が全身に満ちてゆく。

 このとき面白いのは、安心の表情を常に示しているのではなく、安心ゾーンに保たれたまま次第にこどもが自分の好きなことをし始めることである。「好きなこと」といっても、自分の指を吸ったり、首と目を動かして興味のある方を見たりするぐらいだが、妻とこどもの親密な空間の内部にいるかぎり、必ずしも直接のアイコンタクトなどを常時維持するのではないことがわかる。この、親密な空間(安心ゾーン)は発達に従って徐々に拡大し、後の親子の衝突もこの空間の濃淡や境界の制御をめぐって生じるのだろう。

 「安心」と「無」に話を戻す。不快・不安と対になるのは「安心」だと思いこんでいた。しかしこどもの表情を見ていると、不快・不安の対称としてまず「無」があり、そこから徐々に「安心」が上積みされていくようである。ここからさらに、親とのコミュニケーションを通じて「喜び」「楽しさ」などが発達してゆくのだろう。いずれにしても、安心や幸福よりも、不快・不安が無い状態としての「無」が先にある。エピクロスという哲学者が、苦痛や動揺が無い状態=「アタラクシア」こそが生の目標だと言っている。これは正しいのかもしれない。