しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

匍匐前進と舌

こどもが匍匐前進をするようになった。

1ヶ月半前に寝返りをするようになって以来、起きているときはほとんどうつ伏せで顔を上げた姿勢で過ごしている。ただ、そこから手足を動かして前進できるようになるまでが長かった。手足を四方にびょんと伸ばしてみたり、まず両足を無理やり動かしてみたり、両手をうまく前に出したり、さまざまな動きを試していた。それらの「練習期間」を経て、ここ1週間ほどでさくさくずいずいと匍匐前進をするようになった。「ハイハイ」はまだしばらく先だろう。

しかし匍匐前進が自由にできるようになっても、部屋を自由に移動するわけではないところが面白い。かれが匍匐前進をするのは、そこにある眼の前のモノを手に取って口に入れたいときだけである。移動してから手にとって口に入れるのではなく、口に入れたいから移動する。口に入れて舐め回すという目的がまずあって、モノを掴むための両手がそれに従属し、両手が伸びる範囲を拡大させるために両足が動く。もしかれの舌がカメレオンのように伸びるなら、匍匐前進ではなく舌伸ばしを覚えただろう。両脚は、あくまで、口と両手が支配する眼前の空間を拡大するために働く。

したがってモノを口に入れたいという欲求が起点にない場合は匍匐前進は始まらない。この欲求が起動するのは、モノが手と口の支配空間の内部もしくは近縁にある場合だけである。物理的距離としては50センチくらいだろうか。それより遠いと、近づいて掴んで口に入れようという気持ちが起きないらしい。見ているだけで近づかない。

そのために移動自体を目的とした移動や、探索のための移動はしない。身体能力の次元では確かに移動能力を手にしているのに、それを「移動」という抽象的な次元に置き換えて身体を用いることがまだできない。大人は「30分あればここから~~km離れたところまで行ける」「A地点からB地点まで移動するには~~という手段で~~時間かかる」というように〈移動そのもの〉を把握して、目的ごとにその能力を活用する。しかし匍匐前進ができるようになったこどもにとって、移動能力は口でモノを舐めるという目的の下位に位置づけられている。

これは空間の理解の仕方が異なるということでもある。大人も確かに空間を欲求によって理解する(「ディズニーランドに行きたい」「静かなところで過ごしたい」「早く帰宅しなければ」)。しかし同時に抽象的な位置関係、方角、距離によっても理解し、そこに移動能力(徒歩、自転車、自動車の運転、交通機関の利用)を組み合わせてかんがえる。移動能力による空間の理解は時間の理解でもある。Xkm離れたA点とB点は、Y時間内に往復できる範囲として把握されている。欲求はこうした空間と時間と移動能力の理解によって再定義される(「ディズニーランドに行きたいが、日帰りというわけにはいかないなぁ」「ここらで手軽に行ける静かな場所といえばZ公園かな」「あと30分で帰宅できると家族にLINEしておこう」)。

これに対して、いまのわたしのこどもはほぼもっぱら欲求によってのみ空間を色づけているのだろう。たしかに部屋の全体はよく動く首と目によってかなり見渡せているが、そのほとんどは自力では舐め回すことができず、ただただ両親が何かを置いたり取り出したりする場所である。1メートル上の空間も1メートル後ろの空間も、親が手で触るところであってじぶんが舐める対象ではないという点では「同じ」であって、その方角や物理的距離や位置関係は意味を持たない(ただ唯一、ベッドからうまく覗き込むと台所に立つ母親の背中が見えるという位置関係だけが重要である)。視覚的にはカラフルで奥行きがあるが舌触りとしては曖昧な空間のなかで、手と足が届かせてくれる前方50センチほどの広がりだけは濃密な実感を準備している。この範囲だけが舌触りというもう一つの「照明」で照らし出されており、手足はそれを満たすために順序良く動く。