しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

芦名定道先生のこと

大谷大学の学部生だったころ、芦名定道先生の「キリスト教学」の講義を1年間受けた。芦名先生自身は京大のキリスト教学講座の教員で、大谷大学には非常勤講師として来られていた。(京大に入学したわけでもないのに芦名先生の授業を聞けたのは単純に幸運としか言いようがない)

 

講義は重厚で強烈で、先生の知識そのものが一つの整然とした計画都市のようで、その中のひとつずつの建物が綿密に作り込まれているようなものだった。その都市の入り口に入って、全体地図の一部を見せてもらうのに一年間がかかった。

講義はずっと独特の早口で、「中国のキリスト教は抜群に歴史が古いんですね」と言われたときの口調を思い出す。話すことが多すぎて、通常の2.5倍速ぐらいのスピードでずーっと話し続けるのだ。

そのときの講義でおそわったことは、キリスト教の世界観や基本思想が近代科学の原型となった、ということだったとおもう。このように一行でまとめるとそれだけの話のようだが、2.5倍速で90分間の講義を1年間かけて、膨大な背景知識を編み合わせながらこの筋をたどっていった。碩学という言葉がごく単純にそのまま当てはまるひとであるとおもった。

1年間きちんと講義を受けて、前期と後期に試験(レポートだったっけ?)を受けて、単位をきちんといただいた。そのときのノートやプリントはいまも残している。この経験はわたしの代えがたい財産である。

 

今回、名誉ある6名の学者として政権から認定を受けたという報道の中に芦名先生のお名前を久しぶりに拝見して、ただ1年間講義を受けただけの自分だけれど、たまたま思い出すことを書くことにした。