しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ゴジラKOM雑感

・映画館で涙ぐむのはガメラ対イリスの雲上戦以来だった。

・具体的にはラドンの登場からアルゴとの空戦までのシーン。かっこよすぎた。この映画との出会いに感謝した。

・製作陣はイリス戦も参考にしてたんじゃないだろうか

・本当にラドンかっこよかった

・それなのにgkb(ゴマスリクソバード)

・ストーリーも、これ全体的にゴジラというよりガメラですよね

モナーク無能すぎる気がする

・よくアルゴの予算認められたなと思う

・アルゴ一隻で原子力空母4隻分くらいかかってそう

・米四軍はよく我慢してたな

・お母さんのキャラ造形。劇場版クシャナ様とサラ・コナーとミサトさんとクェスの悪いところを寄せ集めたら生まれた、みたいな。

・しかし、全体的にガバガバすぎるストーリーをあのお母さんがカバーしているという説もある。

・悪役テロリストがGoTのタイウィン・ラニスター役の俳優さんで、ラニスター勢としてはテンション上がった。このひとは視線の使い方に独特のケレン味があって良い。

・結局モナークの存在理由…

・なぜ球場に娘がいるとおもった?

・羽化直後にモスラを味方認定する人類

・ムートゥーのキャラデザやっぱイマイチ

・やっぱ核=強烈な爆弾くらいのイメージなんだなって



柔らかい現実と硬い現実

自然災害と戦災を同列に扱うことができるか否か、ということを先週書いた。このときわたしは、復興という観点では同列視できない部分があるという立場をとった。

 

しかし、個々人の体験という観点においては、自然災害と戦災は共通する部分があるとおもっている。個人の生身の知覚や体験や記憶という次元では決して別のものとして切り分けることができない。たとえば阪神・淡路大震災では、避難所で防空壕などの戦災体験を思い出していたという証言がいくつもある。1995年の災害であるから、当時60歳であれば終戦時は10歳だったことになる。

 

共通する部分についてもうすこし掘り下げて考えてみると、自然災害でも戦災でも、極限的な状況では「現実」の位相が切り替わってしまうということがある。

わたしの考えでは、「現実」には2つのモードがある。ひとつは日常生活や長い人生全体での「現実」である。そこには日々の出来事、知覚や感情、良いことや悪いこと、嬉しいことや悲しいこと、慢性の病や疲労、人生の意味の模索といったことが含まれる。日々の生活と人生全体は、独特の厚みと苦味を伴っている。労苦の方が多いけれども、それですぐ潰れるわけではない。そのときどきで対応策を見出してサバイブしてゆく。これはふだん私達が「現実を見なくちゃ」「これが社会の現実なんだよな」「現実は厳しい」などと言うときの〈現実〉である。区別のために、これを〈柔らかい現実〉と名付けておこう。

柔らかいといっても、甘いとか容易とかいったことではない。〈現実〉は容赦なくわたしたちの人生に突き刺さってくる。ただ、この心身に破城槌のように突っ込んでくる諸々の事件に対して、わたしたちはある程度の身構えや「バリア」を張ることができる。現実と自己の間に緩衝部をつくることができる。たいへん疲れる仕事をこなしたあと、じっくり休むといった対応策を講じることができる。とくに、時間を味方に付けることができる。時間の流れを織り込んだ心身の保持システムが与えるアクチュアリティが〈柔らかい現実〉の根幹であるとおもう。

 

これに対して、緩衝部を設けることもゆるされずに、物理的な暴力が身体に直接めりこんでくるような状況がある。これを〈硬い現実〉と名付けてみる。

翔鶴が沈没するとき、傾いた飛行甲板を水兵が滑り落ちてゆき、燃え盛るエレベーターのなかに次々と飲み込まれていったという証言がある(瑞鶴だったかも…)。火の中に落ちてゆく水兵は対応や身構えを取る余裕を与えられない。どうすればよいかとじっくり考えたり、すこし逃げてみたりすることもできない。それを目撃している水兵も同様で、目の前で起きている出来事をじっくり咀嚼し、意味を身体に染み込ませてゆく余裕を持てない。

別の言い方をすると、〈硬い現実〉にひとが飲み込まれると、その身体は平時のさまざまな保持システムの焦点部であることができなくなり、単なる物理的な点・サイズ・位置になってしまう。ひとがモノになる。そのひと自身はそれを受け入れず、抗おうとするけれども、状況がかれの身体をただのモノとして動かしてゆく。知覚や意味や行動や時間や環境といった、心身を取り巻き構成していたさまざまな存在の次元が一挙に突破され、ただ落ち、燃え、潰される。

 

自然災害と戦災に共通する部分は、この〈硬い現実〉にひとが破砕されるということである。

 

***


さらに単純に言えば、人間の死が尊厳と準備をもって扱うことができないことが、〈硬い現実〉の特徴となる。もっともっと単純に言えば、お葬式がきちんとできないこと、それなりに穏やかな臨終を用意できないこと、眼前の死者が「ご遺体」というより「死体」として現れてしまうことが、特徴となる。

先日、昨年の西日本豪雨災害の被災地のひとつを訪問したとき、地元の行政職員の方に「土石流であのあたりが崩れて、ご遺体はほとんどこのへんに集まっていた」と案内していただいた。

「普通」の臨終では、遺体の「場所」や「位置」や「形状」は周囲の人間の認識にさほど現れてこない。たいてい、死を迎えつつある生者は病院や自宅のベッドの上にいて、生命機能が途絶した後もしばらくは変わらずベッドの上にいる。急激な、しかしおだやかな変化がひとりの人間において生じ、周囲の人間はそれを見守る。しかし土石流の死者の場合、遺体はそこで「発見」される。発見されることによってそのご遺体がご遺体として現れる。あらかじめ遺体が存在して、それがたまたま今回は発見という仕方で認識されたのではない。発見という志向性とご遺体という在り方が不可分である。そして、その発見に至るまでに、容赦無い外力が身体にぶつかり続けたことが、発見と同時に開示される。


***


自然災害も戦災も、それを生きのびることは2つの現実のもとで生きることである。

弟の個展

弟の個展が神戸市東灘区のアートギャラリーでひらかれています。

きょう10日から、6/30まで。

 

http://street-gallery.net/top/category/upcomming/

高原秀平展 星のモザイク

2019年6月10日(月)~6月30日(日)
9:00~21:00(最終日は15:00まで)

 

上の写真は京都で個展したときに撮ったやつのはず。

めっちゃ最新の作品が出てるかどうかわかりませんが、よろしければ足をお運びください。

戦災と天災

 『月刊社会科教育』という小中学校の社会科の先生を対象とした雑誌が、2011年8月号で「”災害の歴史”と人類の叡智」という特集を組んでいる。東日本大震災の直後の時期であり、社会科教育で災害をどのように扱うかがテーマとされている。

 

 その中に、谷和樹氏(玉川大学教職大学院准教授)による授業シナリオ案と、竹澤伸一氏(千葉県市川市中学校教員)による谷氏の提案への批判、谷氏による再反論が掲載されている。ひとつの特集中に批判と反論の応答が掲載されているというスタイルが面白いとおもう。

 二人の討議の中心にあるのは、戦災と自然災害を同列で扱えるのか否かという問題である。これは決してゆるがせにできない問題であるとおもうので、自分が考えるためにも簡単にまとめておきたい。

 

 まず谷氏による授業シナリオ案について。小学生向けの授業で、単元を以下の4つで構成するという想定となっている。

1 日本は奇跡的な復興を何度も経験してきた

2 近代から現代までの復興のポイントはそれぞれ何か

3 東日本大震災からの復興をどう考えるか(わたしたちのアイデア

4 未来のインフラをささえるエネルギーをどうするか

 竹澤氏との議論の対象になったのは「1」である。そこで谷氏の記述をもう少し引用する。

未来のまちを考える授業。その導入は過去へと遡る場面から始まる。/長い日本の歴史の中、これまでに幾度も日本を襲った未曾有の危機。/そのすべてで日本は世界中が瞠目する復興を遂げてきた。扱うのは次の六つである。

(1)白村江の戦い(662年)

(2)元寇(1274年・1281年)

(3)黒船来航(1852年)

(4)関東大震災(1923年)

(5)東京大空襲(1945年)

(6)阪神・淡路大震災(1995年)

 このうち「二 東京大空襲」については「■空襲を受けたのは東京だけではありません。日本中が空襲にあったのです。戦争が終わってから復興していった街の様子です」として、1945年から55年の大阪、広島、仙台青葉通り、兵庫県姫路市大手前通りの写真を見せ、「■これらの資料のキーワードは一言で言って何ですか」と授業を進める、とする。その答えは延焼を防ぐための「幅の広い道」であり、「戦災地復興都市計画基本方針」の資料を提示する。戦災復興事業のなかで各地の都市構造が改良されたことを示す流れとなっている。さらに阪神・淡路大震災でソフト面の視点が「復興」に取り入れられたことを学習するシナリオになっているが、以後は省略する。

 

 さてこれに対して、竹澤氏は次のような批判を寄せる。

 戦災と天災を同列視できない

 谷氏の単元案は戦災からの復興と天災とを同列視している。関東大震災からの復興と東京大空襲からの復興が、「災害からの復興」という視点で同列に語られる。私はこの点に強い違和感を覚える。

 (…)東日本大震災は恐らく人知を超えた自然災害である。被災された方々にとってはまさしく晴天の霹靂、ふって沸いた理不尽な仕打ちである。それでも今後の天災に備えて何か知恵はないかと追究するのが単元づくりの根幹であろう。

 戦災は人知を超えた災難ではない。国家規模の愚策が招いた人災である。地震津波による被害の拡大には、時の政府による対応の遅れという人災の部分は確かにある。でも発端は明らかに天災である。戦争は防げるが天災の発生自体は防げない。そのどうしようもないものに対しても、なんとか生き残る術を社会科の単元で考えるのである。だから私の11時間の単元案には戦災は微塵も含まれない。

  竹澤氏の批判のポイントはわかりやすい。東日本大震災は自然現象を起点とした天災であり、人災の側面も含まれるが、起点としての地震そのものはどうしようもない。しかも(広さや深さなどで)人知を超えている。それでも災害を「生き残る術」や「今後の天災に備えて何か知恵はないか」と考えることが授業のねらいであるべきだ。他方で戦争は人間の知恵で防ぐことができる。したがって同列に扱うべきではない、と。

 

 これに対して、谷氏は次のような反論を立てる。

 戦災が人災であることなど当然である。それが防げるか防げないかも、今回の「復興と未来のインフラ」という視点とは直接関係ない。起こってしまった大規模な破壊からどのように復興し、新たなインフラを築いていくのかということが論点なのだ。「震災」でも「戦災」でも同じである。「同列視」するかどうかは別として、250の都市が焼け野原になった戦災からの復興経験を、良くも悪くも教訓としないなど考えられない。

 谷氏の反論も明確である。谷氏の立場では、授業のねらいは「起こってしまった大規模な破壊」から都市とインフラを復興してゆく道筋を学習者が考えることにある。震災による復興を考えるならば、「大規模な破壊」とその復興の先行例である戦災復興を参照するのは当然である、と。

 

 以上が討議のあらすじとなる。谷氏と竹澤氏の主張は、どちらが根本的に誤っているというものではない。谷氏は、空襲も震災も「大規模な破壊」であるとする。竹澤氏は、それが生じた原因を考えるならば同列視できないはずだとする。もう少し言うと、谷氏は「破壊」の発生を所与のものとして、そこからの復興の(どちらかといえば都市計画的な)プロセスに重点を置くのに対して、竹澤氏は破壊の原因をも視野に入れて東日本大震災という「人知を超えた」出来事そのものを捉えようとしている。視点をどこに定めるかによって、戦災と天災を同列視して良いか否かという立場はとうぜん変わってくる。

 このようにまとめた上でわたし自身の考えを書いておくと、わたしはどちらかというと竹澤氏の立場に近く、谷氏の意見に対しては批判的な立場を持つことになる。もちろん谷氏の視点も大切であるし、場合によってはそのように考えることも当然ある。ただ、復興を考えるとき、「焼け跡」を起点とするか、その原因まで含めて捉えるか、ということはとても微妙で難しい問題であるとおもう。少なくとも、焼け跡を起点とする(原因については問わない)のが基本だという立場はわたしは採らない。

 それはいろいろ理由があるけれど、根本的には、復興は被災地外との関係性のなかで進むものであるからだ。その「被災地外」は、「空襲=起こってしまったもの、(なぜか)襲ってきたもの、日本が(不運にも)遭ったもの」というネイションの支配言説の内側だけではない。そうした言説を共有しない外部からも助けを求めざるをえない。そのとき、既成の言説をいったんカッコに入れて、なぜそうした災厄が起きたのかというところから深く考えなければ孤立してしまう。

 たとえば「復興」の在り方について外国のひとと話し合う場にいたと仮定してみる。そうした場で、たとえば四川大地震の被災者と東日本大震災の被災者が、お互いの経験や苦楽について共感しながら語り合うということは起こりうる。だが、日本人の側が「わたしたちは東京大空襲からも復興し、それを元に今度の震災からも復興します。あなた方も過去に重慶爆撃からの復興を経験しましたし、四川大地震でも苦労なさいましたよね。お互いにがんばりましょう」と言って話が和気あいあいと進むかといえば、おそらくそうではないだろう。日本人がオーストラリア人に「ダーウィン空襲では大変だったでしょうね、わたしたちもいろいろな震災や空襲の経験があります」と言って、うまく話が進むかどうか。

 これらは戯画化した例にすぎないが、〈戦災と天災の復興は、いずれも「起こってしまった大規模な破壊」からの再建である〉とみなすこと自体がかなりナショナルな言説のひとつであり、その言説の外側では通用しないこともありうるということは確認しておく必要がある。過去の都市復興計画について分析するひとが、それらを同列視することに政治的な含みをもたせていなかったとしても。

 「復興」について考えることは、こうしたナショナルな言説に対する距離のとり方を考えることなのかもしれない。別の言い方をすれば、「未曾有の危機」に際して、戦災を自然災害に似た「被害」の立場で捉える既存の言説に依拠してこれを再強化することで危機を乗り切ろうとする立場を谷氏は採り、そうした言説を部分的にでも解体してゆくことが復興には不可欠ではないかという立場を採るのが竹澤氏であるかもしれない。前者の強みは社会的な活力を物語から簡単に取り出してくることができることである。弱みは内向きになることである。後者の強みは事象をより徹底的に、批判的に熟考できることである。弱みは時間と体力が要ることである。

 いずれも長短があり、スタンスの違いといってしまえばそれまでかもしれないけれど、谷氏の立場では戦災復興と経済発展の延長線上に原発事故が生じたということを「過去を遡る」ことで考えざるをえないところが弱点ではないかとも思う。「復興」はやはり都市計画だけでは済まない。

 

 以下は自戒として。日本の研究環境では、歴史学社会学や国政政治学を研究するひとと違って、「防災」「復興」関係の研究者は政治性を持たないのだ、という雰囲気がぼんやり共有されているような気がする。しかし政治的に完全中立・純粋な、無色透明の学問や研究といったものは無い。つねに、ある立場での言説であるということ。それは気をつけておこうとおもう。

黒田裕子は二人いる

看護業界で著名な「黒田裕子」さんが同姓同名の2名おられると今先輩から教えていただいて衝撃を受けている。

おひとりは、阪神・淡路大震災で災害看護の分野を切り拓いた黒田裕子さん。2014年に亡くなられた。

おひとりは、北里大学看護学部教授の黒田裕子さん。看護診断などについて多数のご著書がある。

同じ業界でどちらも重鎮で同姓同名ってめずらしい。Ciniiの敗北みをかんじる。

 

なお私の本名でエゴサすると、及川光博主演映画の登場人物名が同姓同名である。

クローンは故郷をめざす - Wikipedia

「不慮の事故で殉職した宇宙飛行士のクローン」らしい。なんだそれは……。こんごの人生で及川光博さんにお会いしたらとりあえず握手とかしようとおもう。

防災教育に関する研究はどれくらいのペースで増えてきたのか

Ciniiで「防災教育」で検索し、論文の発刊年次ごとに数を出してみた。

ざっくりグラフにするとこんなかんじ。

f:id:pikohei:20190603152036p:plain

 

査読論文も紀要論文も学会発表も分けずにカウントしている。

また、微妙に重複があるはずだが、おおまかなトレンドを知りたいだけなので除去していない。

 

まず、もっとも古い論文は何か。

Ciniiの検索結果では1975年と1977年に一本ずつ出てくるのだが、この2本は自然災害についての防災教育ではなく、工場などの労災事故を防止するための教育を論じたもの。

これらを除くともっとも古いものは佐古(1984)となる。たしかにこれは自然災害に関する学校での防災教育を扱っているが、「教師の指導活動と学校経営」がメインの議論で、防災教育はそれを調査するための題材にすぎない。Ciniiで引っかかる限りでもっとも古い防災教育関係論文は林(1985)らしい。機関リポジトリで読めるものとしては水野欽司(1987)がもっとも古い。水野は「稲むらの火」を取り上げたひとで、この論文も真正面から防災教育について論じている。32年前の論文だけれど、現在扱われている論点をすでにほぼ出し尽くしている。

 

量の増加についてはどうか。

阪神・淡路大震災があった1995年の時点では9件、翌年は17件。それ以前と比べるとたしかに増えているが、一挙に拡大という印象は受けない。ところがその後の10年間が重要で、20-40件で推移し、着実に論文数が積み立てられている。そして中越地震(2004年)と中越沖地震(2007年)が大きなきっかけとなって70件近辺で推移。中身を検討したわけではないのだけれど、阪神・淡路大震災から防災教育に関わり始めた新鋭世代が、この時期にフル操業していたような印象。

東日本大震災があった2011年には100件、2012年には200件の大台に。しかしその前年、2010年の時点で92件もあったことに驚く。阪神・淡路大震災から中越中越沖地震まで積み重ねてきた経験の厚みをもって、2011年の東日本大震災を迎えたというストーリーがいちおう描けそう。

関東大震災に教育界はどう反応したか(平野・大部2017)

 東日本大震災の後、やはり防災教育は大切だということで、ちゃんと学校で防災を教えましょうという方針が国で固められた。(文科省内のページ:学校安全<刊行物>:文部科学省に答申や参考書がまとめられている)

 防災教育は東日本大震災(2011年)のあと初めて発想されたのではなく、阪神大震災(1995年)後から研究や事例の模索が始まっており、基本的なアイデア・理論・事例は2011年以前におおむね揃っていた。

 じゃあ阪神大震災より前はどうだったのかというと、ざっくり言って、何も無かった。授業中にサイレンが鳴って校庭に出るというお決まりの「避難訓練」だけだった。(防災教育は自然災害のメカニズムについて正確な科学知識を身に着け、子どもが自分自身で判断できる力をつけるのが目標であるから、避難訓練だけでは防災教育にはならない。)

 阪神大震災以前に防災教育が存在しなかったのは、これもざっくり言って、大きな災害がほとんどなかったためである。伊勢湾台風(1959年)があるのだけれど、その後に防災教育の重要性を確認するような世論は生まれなかったらしい。その理由はいずれ調べておきたい。

 しかし実は戦後すぐ、教育改革のなかで防災教育をきちんとやりましょうという方針が一度は立てられていた(城下・河田2007:https://www.jsnds.org/ssk/ssk_26_2_163.pdf)。ところがすぐにうやむやになってしまい、結局、阪神大震災まで「防災教育」は日本に存在しなかった。

 

 以上はやや長い前置きである。東日本→阪神淡路→終戦直後と遡ると、関東大震災後はどうだったのかということが気になる。この問いに関して、とても面白い論文があった。ので紹介したい。

 

●CiNii 論文 -  大正期教育雑誌に見る関束大震災後の教育主張と実践

 

関東大震災後の、教育家・学校教員の理論的・実践的教育言説をとりまとめて検討したもの。詳細は上記リンクからPDFを読んでいただくとして、以下で自分なりに要点をまとめておく。

第一に、教育者の言説にも天譴論が色濃く現れたということ。天譴論とは、自然災害を人間社会の退廃や政治の腐敗に対する神様からの罰だとする解釈のこと。天譴論の広がりを批判する教育者もいたが、「訓育的意図のもと、それを教育効果を持つ”教師の言葉”に利用しようとした例が存在した」(3頁)。

第二に、「防災教育の視点」はほとんど生まれなかったこと。わずかな例外として佐藤保太郎による避難の参考になるような具体的記述が紹介されている。また、木下竹次というひとが、「子供の自主性と自律性」を言っているのがおもしろいとわたしはおもった。孫引きする。「現時の教育者は多く知識を与へ教師の判断を児童生徒に承認させて居るが之では平時でも非常時でも不都合である。如何にしても児童生徒が自ら判断し自ら実行する様にせねばなるまい」。

第三に、「震災を契機とした修身教育論」は盛んだったということ。学校から御真影を命がけで救出したエピソードや教員と青年が互いに励まし合って一夜をのりこえたエピソードなど、いわゆる哀話美談の類が好まれ(これは教育界だけでなく当時のメディアが全体的にそうだった:成田龍一さんの論文が詳しい)、震災体験記が「生きた修身教材」(5頁)として用いられることになった。

第四に、こうした修身教育の方向性が、「国民精神作興に関する詔書」に合流してゆく。「詔書」は上述の天譴論を背景としたうえで、国家の復興を国民の「忠孝勇儀ノ美」に求める。それを修身の授業で先生が子どもたちに教えてゆく、という流れになっている。

 

ここからは論文の主張ではなくわたしの考え。単純な結論として、防災教育は関東大震災後に生まれなかった。そういうことをしよう、と言うひとすら少数の例外を除いてほとんどいなかった。その代わりに、国家や道徳といったもっと大きなものに同一化しようという流れに教育界もはまってしまった。防災教育の根本は、ひとの命を守ることにある。根本の根本をつきつめれば、子どもを含めて人間の命を守るということ、それ以上でもそれ以下でもない。一方で、崇敬すべき指導者のもと一丸となって国民みんなでがんばろう、復興しようという動きが生まれるのも無理のないことだけれど、歴史的事実としてはそのまま戦争に向かっていった。生命は鴻毛より軽いということになった。

 この岐路はどこにあったのか。関東大震災があったからといって、それで「命を守る防災」の方向に転換したのではなかった。戦争が終わって、命は大事だということになったけれど、災害のことはなんとなく忘れられて経済発展に目が向いた。そして阪神大震災東日本大震災が起きて、どこかへ向かっているのは確かなのだけれど、どこへ向かっているのだろう、とおもう。100年後、150年後のひとに、「阪神大震災東日本大震災があったのに、なぜ当時のひとはああいう方向に向かってしまったんだろう」と思われてしまってはいかんなとおもうのだけれど、さて、どうしたものか。