しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

待つことについて

(これの続きです)

 

家族LINEで「おばあちゃんの血中酸素濃度がどんどん下がってる」と連絡が来た。会議を抜け出して病院に行った。

病院にはすでに父と二人の伯母がいた。祖母は浅い息を繰り返していた。顎を上げて、背中から胸を膨らませようとしていた。酸素のマスクを付けているけれども、この呼吸では苦しいだろうとおもった。祖母の息のペースに合わせてじぶんも息をしてみたが、なかなか合わない。

看護師さんが心拍数を測るセンサを指先から耳元に移し替えた。なんだかドタバタと作業をする中年の看護師さんで、もうすこし静かにやってくれてもいいのにな、とおもった。一連の作業を終えてから、この看護師さんは祖母の肩のあたりをかなり強くばんばんばんと叩きながら、「高原さん、がんばってよ!」と大きな声で言った。がんばると言ったって…と、わたしは母と顔を見合わせた。彼女はもう十分がんばったはずだった。意識が濃霧に隠されてゆく20年を過ごしていた。呼吸の様子からは臨終が近いように思われた。しかし視線は非常にはっきりしていて、首は振れないのだけれど、だれかがベッド脇にいると瞳をそちらに動かした。残る生に縋っているようでもあったし、淡々と周囲を確認しているようでもあったし、子や孫の顔を明瞭に認識しているようでもあった。

伯母がわたしの隣に立ち、フランスで以前お会いしたXX教授も先日亡くなったのだと言った。その流れで、フランスのアルジェリア支配や、ベトナム出身者がフランス国籍を取得することの話をした。なんで臨終の祖母の枕元でアルジェリアの話をしているのだろう。そしてもうひとりの伯母が入れ替わりに来て、さきほどの伯母の悪口をあれやこれやと言った。つまり彼女らはいつもどおりのペースだった。祖母の頭上を声が飛び交い続ける。

従姉妹が来て、すこし目を赤くして祖母の横顔をじっと見た。祖母の死を遅らせようとするのでも、早めようとするのでもなく、祖母の時間をかき乱すのでも、介入するのでも、増強しようとするのでもなく、従姉妹の時間の流れを押し付けようとするのでもなく、時間がそのまま時間として熟しながら祖母とわたしたちの存在をまもるかのような。

 

病室から出て、父と戦後ハリウッドの「赤狩り」の話をした。テレビを見ながら父と伯母となんとなく雑談をしたあと、父が「そういや何を待ってるやっけ」と言った。「Aちゃん(わたしの妹)たちが来るんを待ってるんやっけ」と伯母が返した。わたしも、なんだかわからなくなった。つまり待っていたのは妹たちの来着であり、あるいは祖母の死であったかもしれないけれども、どうもそうした具体的な何かを待ち構えていたわけではなかった。けれども何も待たずに漫然と過ごしていたのでもなかった。その場にいた4,5名の親族たちがみな、何を待ち構えるのでもなくただ待っていた。祖母もきっとそうだったのだろうと、葬儀をさしあたり終えたいま思う。

 

コロナとバブル

昨日まで1週間、調査のためアメリカにいた。

その間、故国における感染症の社会的状況は新しい段階に入っていた。

 

けさ、日用品の買い出しのためにスーパーに行くと、マスクとトイレットペーパーが売り切れだという張り紙があった。マスクはともかく、買い占め騒ぎがトイレットペーパーにまで広がるとは予期していなかった。そのようなニュースはアメリカにいる間にもネットで見ていたけれど、じぶんの地元のスーパーでその張り紙を見るのは驚きだった。

 

なぜトイレットペーパーの売り切れが起きるのだろうか。それは、人間が将来を予期する生き物であること、および他人の行動と自分の行動を区別できないことが原因なのだろう。たんじゅんに言えば、「『他のひとがトイレットペーパーを買うだろうから、じぶんも今のうちに買っておかねばならない』と他のひとが考えるだろうから、じぶんも買っておかねばならない」という心理がはたらくということである。他人の予期を推測したうえで、それをじぶんの予期と行動に組み込んでしまう。

この心理は「マスクが払底するならトイレットペーパーも払底するにちがいない」あるいは「感染症対策で経済が麻痺すればトイレットペーパーの生産が止まって在庫が無くなるにちがいない」という一般的な予測とは異なる。こうした予測だけでは社会現象としての買い占め騒動は生じない。2つの予測はいずれも合理性を欠く。製造や流通が麻痺する可能性はあるが、それならガソリンや自家発電機を買い込んだほうがマシである。単純な予測だけではトイレットペーパーを買うという行動に結びつかない。

ひとびとが群衆として動くのは、現実の状況をよく吟味して予測するのではなく、他人の行動を予期するからだ。現実を吟味することは精神に負担がかかる。他人に肩代わりさせたほうが良いという傾向がはたらく。ところがテレビを見ていると、専門家も言うことがけっこうバラけているように見えてくる。するとさらに肩代わり心理が悪化して、「他人はこの現実をどう吟味しているか」すら調べなくなり、「他人はどう行動するか」を予期しはじめる。すると、上述の「じぶんも買っておかねばならない」という嵌め込み構造にとらわれる。そしてスーパーに実際に行ってみて、たしかに売り切れになっているのでこの「予期」が間違っていなかったことに安心するのである。*1

 

現実認識を省いて他人の行動の動向に自分の行動を任せるという傾向性が経済活動に蔓延した事例がわが国にある。90年代のバブル景気である。上述の「トイレットペーパー」を「土地」に入れ替えれば良い。同じことをくりかえしている。

バブルの場合、「いま買っておかねば、濡れ手に粟のように現金や豪奢な生活が手に入る機会を逃す」という、蜃気楼を追うような欲望が上述の自己嵌め込み的心理に燃料を与え続けた。今回のコロナの場合、「いま買っておかねば、ウンチをしたあとお尻が拭けなくなるかもしれない」という、これまた蜃気楼を追うような危機感が燃料を補給している。バブル崩壊を経て、現在の日本の一般家庭のウォシュレット普及率が8割を超えているという事実は、この蜃気楼に勝てていない。現実よりも行動に重きを置くひとびとが多いということなのだろう。

*1:じぶんが買い出しに行ったのは調査旅行のため冷蔵庫が空っぽだったからで、トイレットペーパーは意識に無かったけれども、こうした心理が部分的にでも働いていたことはじゅうぶんありうる。わたしも群衆なのだということ。

災禍と理性

決断には2種類ある。

考え抜いた末に、事態に適う仕方で行う決断。

考え抜くことに耐えられなくなり、事態から逃走するために行う決断。

 

太平洋戦争の開戦は後者の「決断」だったのだろうとわたしは思っている。漠然とした不安のなかで合理的思考を積み重ねることは独特の心身の負荷を強いる。それに耐えきれなくなったとき、ひとは「決断」する。

こうした決断の心理的帰結は直後に「すっきり」することだ。太平洋戦争の開戦の報を聞いた日本国民の多くがそうした感想を持ったことは諸研究が明らかにしている。この感覚は軍事や外交の意思決定の場面に触れ得ない庶民だけでなく、当の軍部や政府首脳にも通底する感覚だったように思われる。真珠湾奇襲は日中戦争と対米交渉の重苦しさを一挙に「打開」してくれるものだった。現状認識と最善手の解析を停止し、直接行動に切り替えることで精神の平衡を回復するのである。同時に現実が曖昧になる。

 

ここ数日の、堰が切れたかのような「自粛」「中止」「休校」のラッシュは、どうも上記の「決断」に近いような印象を受ける。人間の理性は脆弱である。とりわけ集団現象としては数週間続く負荷には耐えられない。それでも理性が現実を支配していることを確認するために、理性が機能していることを自己確認するために、「決断」をする。決断に頼る。そういう習性があるように思われる。

数字と災禍

 死者を数字で捉え始めると、その事件は災害になっているのだなと今回の新型肺炎を見聞きしていておもう。「災害」と言うと日本語では自然災害のことになるので、より広い種類の事件を含むものとして、災禍という語をさしあたり使うことにする。

 

 この点では、中国における新型肺炎は一つの災禍である。感染者数と死者数をまず認識するからだ。毎日3桁の死者数が報道されるさまはカミュの『ペスト』を思わせる。

 これに対して、日本の新型肺炎はまだ災禍ではない。感染者は日に日に報告され、亡くなられた方もおられるが、日本での死者数の報告が情報の冒頭に現れているわけではないからだ。現段階では、「70代の夫婦が」「初めて10代の感染者が」といったように、居住地域と年齢という大まかな表現ではあるけれど、あくまで個人の存在に視点を置いた報道や報告がなされている。

 

 中国の報道社や政府(またその報告を伝える各国の報道媒体)も、死者の存在を好んで数字で表したいと思っているわけではないだろう。病で苦しみ、亡くなっているのはあくまで名前と歴史と社会性を持った一人の人間である。どれだけ死者の数が増えようと、その原点の事実は決して変更されていない。しかしあるときを境にして、個々人の存在ではなく、まず数字が前面に出るようになる。そのとき事件は災禍になっている。

 

 数字で表すのは、一つにはその災禍の全体像を把握したいからだ。数字で、地図上のプロットで、グラフで表すことで、災禍の規模や動向が理解される。すると社会がその災禍に対する応答をいよいよ拡大する。国外からも救援物資が届いたりする。それはすでに亡くなってしまったひとには役立たないが、いまも苦境にあるひとの命を救うために絶対必要なことである。

 だから数字で表すことが悪だというのではない。ただ、そのとき個々人の存在は一挙に消える。今日までの総死者数が500人で、翌朝にその数が650人になったとき、その「差」である150という数字に含まれているひとりひとりの顔や名前や声はかき消える。

 実際のところ、「追いつかなくなる」という表現がより正確かもしれない。一人ずつの存在が重要だとアタマではわかっていても、昨日亡くなった100名の存在を一人ずつ確かめているうちに、きょうも150人が亡くなり、翌日も100人が亡くなり…と規模が押し寄せてゆく。人間の個人的な把握のキャパを超えた規模になる。人間のキャパを全く顧慮せずに現実が進展してゆく。そこに災禍ということの本質があるのかもしれない。

 

 しかし厳密には2つの選択肢があるはずなのだ。ひとつは数字で把握すること。もうひとつは、死者や苦境にある人の存在を、どれだけ追いつかなくても一人ずつ確かめてゆくこと。たとえば、もしテレビ局がこの方針で事件を報道したらどうなるだろうか。「武漢市で長年食料品店を営んでいたXX翁が73歳で亡くなった。かれは友人を多く持ち、商売は住民から信頼されていた。次に…」というように、一人ずつ一人ずつ紹介する。すると、一日あたりの死者数が、一日に報じることのできる数を上回ることになるだろう。全ての報道局や政府機関が同じ態度を取れば対応は麻痺してしまうだろう。けれども災禍にはならない。対応がさらに遅れて被害は拡大するが。

 

 現実には数字で把握しないことは不可能だ。選択ができるわけではない。そのように強制してくる、現実がそのように変容するのが、「災禍」の本質なのだろうとかんがえはじめている。

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

テレビ朝日の「阪神淡路大震災 取材映像アーカイブ」が公開されました

 

 約38時間分、1970本だそうです。サイトを通じて上映するのであれば、非営利の研修や研究用では無償で利用できるとのこと(要事前連絡)。非常に貴重なデータベースです。テレビ朝日さんのご尽力・ご英断に感謝します。(人と防災未来センターも後援だそうな)

 

 映像を見ていると、傾いた看板や電柱を身体をかたむけて避けながら歩くかんじを思い出しました。災害の記憶のある程度の部分はこうした「動作」や「仕草」で記銘されているのだなと改めて思い至ります。

 

書くことについて

文字とは元来、神秘をその凹凸や形状そのものにおいて凄烈に現す場であるか、もしくは呪いの意図がいったん滞留する場である。卜占においては文字は書き手なく現れる。呪いにおいては文字は読み手なく刻まれる。いずれの場合も、文字は激しい恐怖や畏怖の感情を引き起こした。それは刻まれるもので、個々の意味よりも痛みの予感と恐怖が先行したにちがいない。

古代人は文字が持つ恐怖を長い時間をかけて馴致するために入れ墨を肌にほどこした。入れ墨は文字が帯びる神秘や呪詛の力を自身の肌で再現する工夫だった。意味という現象がいまだ身体から遊離しきっていない世界に棲むひとびとは、入れ墨によって意味と力と身体の融合を取り戻した。


文字を刻むことは、その媒体を痛めつける行為にほかならない。その力が強すぎると、媒体は割れたり折れたりする。したがって、ひとは媒体の薄さや脆さを把握しながら、文字を一つずつ刻む。それは嗜虐的な行為でもある。人類が長い時間をかけて獲得した「書く」という行為の古層には、神秘の力への畏怖と、自らの力を調整しながら痛めつけを遷延させるという行為の記憶がある。


何かを書くときの媒体、つまり紙や黒板やスマホの画面は、刻みつけ、痛めつける行為を差し向けられる。紙も黒板も画面も、痛みをにちにちと与えられるという点では、ある種の皮膚である。いま阪急の車内を見渡す限り、あらゆるところに広告や案内の文字が広がっている、そのサーフェイスはみな皮膚である。なにかの生物の。そう考えるとようやく、いろいろなものがわたしにはしっくり来る。


拒む

災害に関連する「作品」に対する瞬発的な拒絶感のようなものがある。とりわけ、壁画、オペラ、合唱といった大掛かりなモノに対する否定的感覚がある。

食わず嫌いというのか、中身を十分に検分しないまま、受け入れることを拒絶している。生理的な、という言い方がしっくりくる。きっとよく見れば素晴らしい作品であったり、そうでなかったりするのだろう。巨大であるだけの作品もあれば、巨大であることで真に成立する作品もあるだろう。それは見なければならないはずだけれど、その前に拒絶してしまう。

なぜなのだろうとおもう。