文字とは元来、神秘をその凹凸や形状そのものにおいて凄烈に現す場であるか、もしくは呪いの意図がいったん滞留する場である。卜占においては文字は書き手なく現れる。呪いにおいては文字は読み手なく刻まれる。いずれの場合も、文字は激しい恐怖や畏怖の感情を引き起こした。それは刻まれるもので、個々の意味よりも痛みの予感と恐怖が先行したにちがいない。
古代人は文字が持つ恐怖を長い時間をかけて馴致するために入れ墨を肌にほどこした。入れ墨は文字が帯びる神秘や呪詛の力を自身の肌で再現する工夫だった。意味という現象がいまだ身体から遊離しきっていない世界に棲むひとびとは、入れ墨によって意味と力と身体の融合を取り戻した。
文字を刻むことは、その媒体を痛めつける行為にほかならない。その力が強すぎると、媒体は割れたり折れたりする。したがって、ひとは媒体の薄さや脆さを把握しながら、文字を一つずつ刻む。それは嗜虐的な行為でもある。人類が長い時間をかけて獲得した「書く」という行為の古層には、神秘の力への畏怖と、自らの力を調整しながら痛めつけを遷延させるという行為の記憶がある。
何かを書くときの媒体、つまり紙や黒板やスマホの画面は、刻みつけ、痛めつける行為を差し向けられる。紙も黒板も画面も、痛みをにちにちと与えられるという点では、ある種の皮膚である。いま阪急の車内を見渡す限り、あらゆるところに広告や案内の文字が広がっている、そのサーフェイスはみな皮膚である。なにかの生物の。そう考えるとようやく、いろいろなものがわたしにはしっくり来る。