しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

いま読んでいるもの:金井淑子『倫理学とフェミニズム』(2013)

 いつのまにか本棚に入っていた本を読んでいる。一節だけメモする。

 

 私自身の経験に即して話を進めたい。ある年のゼミナールのことである。他大学を卒業し、セックスワークに従事しているという社会人女性がゼミへの参加を強く希望してきた。その彼女を受け入れて一年間ゼミを進めたことがある。当初、彼女がセックスワーカーであることについて介入的な対応もせず、排除的な感情を抱くこともなかったのだが、さらに今度は別の年度のゼミ生の中から就職氷河期の中での就活の苦しさもあってであろうか風像関係への就職志願者が出たことがあり、それを知るに及んでの私は「あなたの決めたことなら」とはとうてい言えないジレンマに立たされたのだ。

 日ごろ、フェミニズム主流の立場の「売春=悪」論よりは、むしろセックスワーカー当事者の運動へのシンパシーを寄せる、フェミニズム内での少数派のスタンスをとっていた私であるが、現実に自分の身近なところから、主食活動をやめて風俗関係に、という動きが出て、自分の中に相矛盾する感情が存在することに気付かされたのだ。(17頁)

  「あなたの決めたことなら」は、自分と相手の独立した主体間の倫理である。一方、親密な相手に感じざるをえない「おやめなさい」は、自分と相手を同一化してしまうことから生じる。前者はリベラリズムであり、後者はパターナリズムである。言われる側からすれば、「あなたの決めたことなら」は、ときに冷淡さを含みうる。「おやめなさい」はその冷淡さを拒みうるが、家父長制的な経済構造のなかに相手の主体を消失させてしまう。わたしたちはこの2つの基準を自分のなかに同居させている。

 

 このゼミ生は、なぜ著者に相談したのだろうか。もしかしたら、「おやめなさい」と「あなたの決めたことなら」の両方を言ってほしかったのかもしれない。 

(わたしにとって、この問題を考えるためには一つの認識論的なギャップをまず意識しなければらならない。簡単ではない。女性の知り合いが男性であるわたしに「セックスワーカーになろうかどうか考えている」と相談を持ちかけるということは、おそらくほぼないだろうから。)

参照したいと思った論文の著書が逮捕されていた

研究計画を新しく立てて、先行文献をざくざく読んでいる。

これはなんだか参考になるようだ、という論文を見つけた。しかも著者は地元のひとだった。迷惑承知で、会いに行ってお話を伺ってみようかとさえ思った。テンションが上がる。

 

コンスタントに論文を出しているひとだったが、Ciniiで見てみるとここ数年は何も書いていない。別の活動をしているのだろうかと改めてお名前でググッてみると、教え子に対する性暴力事件で逮捕されていた。

 

マジメに生きてくれー!とモニタに向けて言ってしまった。

 

事件の詳細は引かないが、どうにも悪質陰湿な事件で救いようがないかんじがした。悪質でない、救いようがある性暴力事件というものも無いのだが。

 

そこで困ったのが、このひとの論文を参照文献として挙げたものであろうか、ということである。参照しなければ自分の研究が成立しないというほどではない。

 

これは先日の「俳優が薬物使用で逮捕されたなら、過去の出演映画をお蔵入りにすべきか」という問題と似ているように見える。しかし、「俳優に罪があっても、映画作品に罪はない」と仮に言えたとしても、「著者に罪はあっても、論文に罪はない」と言えるかどうか。微妙なところだとおもう。

 

映画はいろいろなひとが関わって成立するけれど、論文は基本的にひとりで書く。とくに人文方面では、著者の考えや活動や来歴が論文にそのまま詰まっているとみなすのが一般的であるようにおもう。すると、著者と著作物の分離が難しい。この点、実験科学などで大量のオーサーが名を連ねていて、機器操作に参加していた一人が不祥事を起こしたというケースならば、「映画と俳優」のケースに近いかもしれない。また、たとえば新天体の発見を報告する天文学の論文であれば、著者が逮捕されたからといって新天体が見つからなかったことにしようということにはできないだろう。今回はそういったタイプの論文ではない。

研究分野と犯罪分野(?)が重なっている点も大きい。教育に関する分野の論文を書いているひとが、教育現場で罪を犯していた。論文を書く元となったさまざまな活動の中に(直接か間接かは別として)、被害者の存在がある。

 

 論文は論文、犯人は犯人、として分離できるかどうか。論文は、文の連なりである。一つずつの文や、それらがまとまってできた文章が意味を持つ。その意味は常に正か誤であって、善か悪かではない。内容の正しさは著者の人格に無関係に成立する。正しいことを書いているが著者がイヤなやつだから引用しないとか、内容は間違っているが著者と親交が深いから是認するということはできない。そんなことをしていたら自分自身の研究がガタガタになる。その意味では、論文の内容そのものに「罪」を見出すことはできない。

しかしまた、引用・参照することは、論文だけでなく、著者の存在を承認するということでもある。立派なものだ、価値あるものだ、それを書いたひとも大切なひとだ、とみなすことになる。そのように宣言するだけの動機が自分にあるかどうか。とくに暴力的事件の場合、加害者を擁護するとみなされる立場に立つことは、被害者にとって、自分への追加の攻撃のように感じられる。「それはそれ、これはこれ」という安易なエクスキューズに走ることが全く適切でない領域であるとおもう。

「業者」とかいう謎の組織

日本に住み初めて、かれこれ30年以上になる。

日常会話についてはそれなりに慣れてきたつもりだし、日本語で書かれた本もそのまま読むことができる。ブログもこうやって日本語で書いてみている。それでも、なんなんだこれは、と不思議に感じる日本語に出会うことがまだまだ多い。

 

「業者」はそうした言葉のひとつである。ギョーシャと発音する。

業者とは仕事を請け負ってくれる人々のことである。微妙にネガティブな語感を持つ語なのだけれど、文脈によってはニュートラルなものとして言われることもある。

 

ニュートラルな文脈の方から考えてみる。たとえば職場に「業者」が来てコピー機を修理し帰るような場合である。

こうした業者は基本的に営利企業である。ボランティア活動しているひとに「業者ですか」と聞くとたいへん怒られるはずである。

さらに、どちらかというと、小規模な営利企業が想像される。ただしフリーランスで完全にひとりで仕事を請け負っているひとを「業者」とは呼ばないかもしれない。数名から数十名の企業組織が想定される。

ただし、実際の会社の規模は本質ではない。要点は、自分たちの側への関わり方である。限定的に、特定の用務のためにこちらに現れて、それが終われば去ってゆく。それが業者である。だから実は従業員数が数千名の巨大企業であっても、作業チームが数名だけ来て帰るならば、それはどちらかといえば業者である。他方で、相手が数名の小企業であっても、自分の会社と対等の契約を結ぶのならば、その相手先を「業者」と呼ぶのはシツレイにあたる。名刺交換して挨拶をして本題に…という関わり方は「業者」ではない。

 

そうしてさまざまな「業者」が職場にやってきては用務をこなして帰る。このおかげで自分のところの企業なり学校なりが成立している。そして今度は、その自分たちが別の場所へ仕事へ赴くと、「業者」として扱われることもある。「業者」はその場限りの役割であって、固定された身分ではない。

 

面倒なことに、日本語には「~~業」という表現がある。「卸売業」「印刷業」「回収業」などである。この場合、語尾に「者」を付ければそのまま「卸売業者」「印刷業者」「回収業者」となる。これは「卸売+業者」なのか「卸売業+者」なのか、わからない。たとえば回収業者はこちらの求めに応じてやってきて何かを回収して帰るので、「業者」でもある。

これに対して、「漁業」に「者」を加えて「漁業者」と呼ぶこともできなくはないが、この場合はけっして「漁+業者」ではない。「畜産業者」にしても、「畜産業+者」であって、「畜産+業者」ではない。

こうして並べてみると、ニュートラルとはいえ、こうした「業者」表現にも、どことなく相手を一段下に見るようなニュアンスが含まれる。ビルの掃除をしてくれているひとを「清掃の業者さん」と呼ぶことはあっても、弁護士を「実刑軽減業者」「民事調停業者」とは呼ばない。さん付けするのは、すでに下に見ている証拠である。誰にでもできる仕事、汚れ仕事、低い階級の者がする仕事、というイメージが「業者」にはついてまわる。ところが同時に、業者を呼ぶのは自分たちではできないからである。業者は時間通りに来て、要求した仕事をそつなくこなし、そしてちょっと割高に感じる請求書を出し、お金を受け取って帰る。一段低く見ると同時に、プロフェッショナルの仕事をしてくれるという信頼や尊敬がある。矛盾しているが、そのような語感がある。

 

さて、さらに明確にネガティブなイメージを与えられる「業者」もある。

たとえば出会い系サイトでサクラをするのは「業者」である。SPAMメールを送ってくるのも「業者」である。要するに、こちらからはっきりと姿が見えないものの、利益を目的としてグレーなことを行っている者が「業者」である。

相手が個人であった場合は「業者」とは呼ばないはずなのだけれど、個人か組織かわからない状況では結局「業者」と呼ばれることが多いようである。グレーな行為をシステマチックに遂行しているように感じられるところが鍵なのだろう。

前半のニュートラルな「業者」との共通点は、相手の顔や個性がはっきり現れないところである。

 

 

 

そういうことじゃないんです

阪急電車に乗っていたとき、80歳代ほどのおばあさんが杖をつきながらヨコヨコとホームから車内に入った。わたしをふくめて、座席に座っているひとの大半が即座に彼女の歩みを捉え、追った。おばあさんはドアから1メートル半ぐらい離れたところに空席を見つけ、そこをめざして前進し始めた。その空席はちょうど列車の中央ぐらいだった。ひとびとの視線もその空席を捉え、安堵した。ビリヤードの玉がコーナーに吸い込まれるのを見守るようだった。おばあさんは座席の眼の前まですすんだ。

そのとき、車体端の優先座席に座っていた中年男性が席を立っておばあさんの元にすっと駆け寄り、こちらが空いていますと声をかけた。おばあさんはちょっと困った顔をしてからUターンした。眼の前の空席をあきらめ、端っこの優先座席への旅を新たに始めた。おばあさんはおそらく、3つか4つぐらいの可能性(転倒するかも、断れば男性に恥をかかせるかも、周りのひとはどう思うだろう、結局立ちっぱなしになる可能性はゼロでないかも、etc...)を同時並行で瞬時に計算して最終的な判断を下したのだろう。さらに周囲のひとびともその計算過程を瞬時にシミュレートして、おばあさんも自分の倫理的判断がシミュレーションされたことをわかっているから、その結果、なんだか微妙な雰囲気が車体に充満する。

 

この中年男性はちょっとだけうっかりさんだった。自席から、おばあさんが目指していた空席が見えなかったのだろう。それはしょうがない。おそらくもう一段慎重であれば、おばあさんの動きや周囲の視線から、彼女が見えない空席を目指していることが知覚できただろう。親切心が知覚の奥行きをインターラプトしたのだろう。

とりあえずそういうことが先日ありました。

「先生方」という言い方が嫌いだった。

「先生方」という言い回しが、なんとも言えず嫌だった。いまもぞっとする。同系統の表現に「先輩方」「皇族方」がある。これもひどくイヤである。

阪大に来て、実質的に初めてこの表現を聞いた。その前にいた大谷大学では一度も聞かなかった。阪大でも自分が所属した文学研究科ではおそらくほぼ聞かなかった。同じ阪大でもX研究科に行くと、しょっちゅう聞いた。何とも言えないおぞましさがあった。ひとりひとりの「先生」は好きなのだけれど、それが「先生方」になるともうダメだった。個人の顔が消えて、権威主義への同化が強制された。一刻も早く消えて欲しい日本語である。

あなたイズだれ、とりわけ女

阪神電車の窓にサプリ薬品の広告が貼り付けられている。薬剤のプラスチック製の容器はやや控えめに映し出され、それよりもこちらを向く若い女性の顔が大きく配置されている。有名な女優さんやモデルさんなのか、無名の方なのかわたしは知らないけれど、すっきりした美人の方である。そしてその女性がなんとも悦びに満ちた顔でこちらを見つめている。金色の流体のようなイラストがなびく髪に半ば重なって背景を構成している。そういう広告である。

不思議な表情だな、とおもう。表情というか、広告が不思議なのだけれど。広告の女性はだれかを見つめている。たいそう嬉しそうである。「恋人に呼ばれて振り向いた」「給料が5000兆円に増額されるという通知を正式に受けた」「全自動洗濯物畳み機が家に到着した」という出来事がいっぺんに生じたらこういう表情をするのかな、とおもう。このサプリを買えば、自然とこういう表情が湧き出るくらい良いことが起きますよ……という広告なのだろう。


この女性はだれなのだろう。といっても、モデルの実際のお名前を知りたいわけではない。どういう人であるか知りたいわけではない。モデルはモデルであって、撮影スタジオを出れば別のひとだろう。彼女は実生活でもときにこの広告写真のような表情をするかもしれない。しないかもしれない。それはそのひと個人の生活に属するものであって、わたしの好奇心の対象ではない。

いま考えたいのは、このひとは、いま目の前で、広告の写真のなかで、焦点の無い微笑みを注いでくれているこの〈ひと〉は、だれなのだろう、ということ。


それはだれでもない、という答えがまずある。強いて言えば「サプリの効果を暗示し、購入した消費者に幸福な生活を保障する女性X」である、と。それは結局、「そもそもだれでもない」ということに他ならない。提示されているのはあくまで広告のための記号であって、広告を成立させるために必要な最低限の「キャラづけ」はあったとしても、そこに人格は存在しない。

「だれ?」と問いかけるためには、その問いかける対象が問いに先立ってひとつの人格であることが前提となる。人格でないものに「だれ?」と問うこと自体が一種の文法エラーである。


だが、ほんとうにこの人に人格は存在しないだろうか。あるいは、「だれ?」と問いかける前に人格の有無が成立しているのではなくて、「だれ?」と問いかけることによって初めて人格が成立するのではないか。あるいは、名前が永遠に与えられない誰かにすぎないとしても、やはり「だれ?」と聞いてしまう何かがそこに生じてしまうのではなかろうか。

別の角度から考えてみる。この広告の女性は、この表情以外の存在を決して持たない。広告がシリーズものになれば別の写真が使われるかもしれないけれど、さしあたりは、いまここの車内で対面しているそのままそれだけの存在である。彼女には思考も歴史も氏名もない(モデルさんがそうだということではなくて)。肩から下の身体も無い。さしあたりは不思議な笑顔と髪の艶がある。わたしはそれに見つめられている。見つめられているが、見つめられる理由がさっぱり無い。しかし笑顔である。この笑顔はなんなのだろうか。この笑顔は、何に規定されて、どこからどこへ向かうのだろう。


もう少し考えたいのですが、乗っている阪神電車が梅田に着いたので、切り上げることにします。

休日について

日曜日に学会に行っていた。京都駅のまわりは人がとても多かった。朝から夕方まで主に哲学対話の話を聞いていた。そしてその振替休日を、きょう取った。

 

休みの日だな、という感覚をじんわり感じている。久しぶりなのか、初めてなのかわからない。

 

とくにこの5年は「休日」が無かった。といっても常に休みなく働いていたわけではない。むしろべっとりとダレる日も多かった。

この5年は、奨学金をいただきながら大学院にいた。平日と休日の区別がはっきりしなかった。一日の生活でも、作業をしている時間と休んでいる時間のメリハリを付けづらかった。ぼんやりダレていると罪悪感に襲われた。努力すると達成感はあるが、どこか虚ろだった。

 

就職すると、平日と休日のコントラストが急に明確になった。月次なことだけれど、休むことは大切だなと考えるようになった。あの独特の、秒針が罪責感と焦りでぶよぶよするかんじが、いまは無い。そうか休日ってこういうかんじなんですな、とおもっている。おもっているが、その実感の中身を説明することが意外とむずかしい。

休日とは何なのだろうか。休息とは何なのだろうか。

強いて言えば、時間から値段が剥がされるということが、ひとつの本質ではないかとおもう。10時に家を出て、いまは13時すこし前だけれど、10時も13時も平等に散逸してゆく。この3時間を有意義に使ったのか、というようなことを考えなくて済んでいる。時間のもとで自分の行動を制御しなくてよい。それは、楽なことだ。

すると、意義や価格といったことから自分をいったん引き離すことが、休日の役割なのだろうか。

 

***

 

10時くらいまでFactorioをして家を出た。阪神三宮駅で降りて、昇ったことのない出口から地上に出ると、現在地と方位がわからなくなった。ビル街の四ツ辻のすみだった。ひとつ隣の筋のマルイをぼんやり眺めていると、日曜日に市バスの事故があった筋のひとつ東にいるとわかった。じぶんの街のことなのに意外とわかっていない。そのまま歩くとすぐに区役所に着いた。引っ越してきたとき交付された健康保険証を返却した。3月の保険料だけは4月27日に引き落としになりますので、と窓口の職員さんに言われた。エレベーターでいっしょになった夫婦らしきひとたちが保育所のことを話していた。小さな男の子も駆け込んできて、父親らしきひとに言われてエレベーターの「2階」のスイッチを背伸びして押した。2階でエレベーターは止まり、男の子は駆けて出た。

 

ファストフード店のすみの席で翻訳作業をしていたら、隣席の男性がスマホを片手に持ちながらグラスの底をストローでしゅるしゅるしゅるしゅると吸い続けた。無作法なことだとおもった。その男性が退席して、つぎに座ったスーツ姿の男性もやはりスマホを片手にグラスの底をストローでしゅるしゅるしつこく浚いはじめた。なにかそういう教団・・・? 俺はひそかに付け狙われている・・・?