しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

あなたイズだれ、とりわけ女

阪神電車の窓にサプリ薬品の広告が貼り付けられている。薬剤のプラスチック製の容器はやや控えめに映し出され、それよりもこちらを向く若い女性の顔が大きく配置されている。有名な女優さんやモデルさんなのか、無名の方なのかわたしは知らないけれど、すっきりした美人の方である。そしてその女性がなんとも悦びに満ちた顔でこちらを見つめている。金色の流体のようなイラストがなびく髪に半ば重なって背景を構成している。そういう広告である。

不思議な表情だな、とおもう。表情というか、広告が不思議なのだけれど。広告の女性はだれかを見つめている。たいそう嬉しそうである。「恋人に呼ばれて振り向いた」「給料が5000兆円に増額されるという通知を正式に受けた」「全自動洗濯物畳み機が家に到着した」という出来事がいっぺんに生じたらこういう表情をするのかな、とおもう。このサプリを買えば、自然とこういう表情が湧き出るくらい良いことが起きますよ……という広告なのだろう。


この女性はだれなのだろう。といっても、モデルの実際のお名前を知りたいわけではない。どういう人であるか知りたいわけではない。モデルはモデルであって、撮影スタジオを出れば別のひとだろう。彼女は実生活でもときにこの広告写真のような表情をするかもしれない。しないかもしれない。それはそのひと個人の生活に属するものであって、わたしの好奇心の対象ではない。

いま考えたいのは、このひとは、いま目の前で、広告の写真のなかで、焦点の無い微笑みを注いでくれているこの〈ひと〉は、だれなのだろう、ということ。


それはだれでもない、という答えがまずある。強いて言えば「サプリの効果を暗示し、購入した消費者に幸福な生活を保障する女性X」である、と。それは結局、「そもそもだれでもない」ということに他ならない。提示されているのはあくまで広告のための記号であって、広告を成立させるために必要な最低限の「キャラづけ」はあったとしても、そこに人格は存在しない。

「だれ?」と問いかけるためには、その問いかける対象が問いに先立ってひとつの人格であることが前提となる。人格でないものに「だれ?」と問うこと自体が一種の文法エラーである。


だが、ほんとうにこの人に人格は存在しないだろうか。あるいは、「だれ?」と問いかける前に人格の有無が成立しているのではなくて、「だれ?」と問いかけることによって初めて人格が成立するのではないか。あるいは、名前が永遠に与えられない誰かにすぎないとしても、やはり「だれ?」と聞いてしまう何かがそこに生じてしまうのではなかろうか。

別の角度から考えてみる。この広告の女性は、この表情以外の存在を決して持たない。広告がシリーズものになれば別の写真が使われるかもしれないけれど、さしあたりは、いまここの車内で対面しているそのままそれだけの存在である。彼女には思考も歴史も氏名もない(モデルさんがそうだということではなくて)。肩から下の身体も無い。さしあたりは不思議な笑顔と髪の艶がある。わたしはそれに見つめられている。見つめられているが、見つめられる理由がさっぱり無い。しかし笑顔である。この笑顔はなんなのだろうか。この笑顔は、何に規定されて、どこからどこへ向かうのだろう。


もう少し考えたいのですが、乗っている阪神電車が梅田に着いたので、切り上げることにします。