全体を通じて、なんだか決定的にズレているなぁとおもう。
では今回の広告が、示そうとした「向き合わなければならないもの」とはなにか。それは、「絆・連帯というもののは時に抑圧的に働くことがある」という事実です。
これは、間違っているとおもう。
問題は次のことにある。「向き合わなければならないもの」を選び、直視させ、整形し、表現し、マスに配信し、受け取り手(女性)の態度や思考やふるまいを規定するのが、もっぱら男性であるということである。端的に言えば、「女子向け」の広告を男性が作ること自体が、より大きな権力性のなかで行われている。
女性にも男性にも、(あるいは「老人」「若者」「日本人」などのカテゴリであれ個人であれ)向き合わなければならない現実は無数にある。「絆・連帯」が抑圧的に働きうるというのも確かにそのひとつである。
しかし、そうした無数の現実のなかから、なぜか「女子」の振る舞いだけが取り出され、直視を強いられる(「おんな」や「女性」ではなく)。その選択の権力は男性が専有している。直視すべき現実は何であるかを一方的に決め、女性をそれに従わせるのが男性的な権力の使用法である。それは裏返せば、「直視されるべきではない現実」をも選び、暴かないでおくことができるということである。直視されるべきではない現実のなかで最大のものは、それを男性が決めているという構造そのものである。
だから、「本当に向き合わなければならないのは、こうした事実なのですよ」と物分りの悪い女子に親切に言ってあげるという立場に即座に自分を置くことができるということ自体が、男性的な振る舞いにほかならない。違う、本当に向き合わなければならないのは、単純に、自分が男性であるということそれ自体なのだ。
身も蓋もない言い方をすれば、この広告は男性が男性向けに作ったものなのだ。「女子ってこうだよね、仲良くしてるように見せかけて裏ではギスギスしてるよね」という言説のなかに女性を押し込めて利益を得るのは男性である。そこに押し込まれたくないというひとが広告に反発している。それだけのことだ。