しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

分別と「つく」

分別という言葉は日常語の体系の中に組み込まれていて、いろいろな意味を含んでいるのに、この言葉が日本の哲学や倫理学のなかで「実践理性」などの用語ほどには確かな位置を与えられていないことは残念なことだとおもう。

 

そこで「分別」について少しだけ考えてみたいのだけれど、そのひとつ前に、「つく」という言葉について少し書いてみることにする。「分別がつく」「分別がついてきた」と言う。この場合の「つく」はなんなのか。

 

一般に「つく」は「付着する」もしくは「付属する」の意味である。

「窓ガラスに鳥の糞がついている」と言うとき、相対的に大きな物体Aに、相対的に小さな物体Bが密着して動かずにおり、人間の手や他の外力を加えなければその状態が変わらないことを意味する。また、「ランチセットにはコーヒーがつきます」と言うときは後者の「付属する」の意味で、これは物体が空間・距離のうえで密接に固定されているのではなく、相対的に大きな意味をもつ何かA(ランチセット)に、相対的に小さな意味をもつオマケBが添えられるという意味である。この場合、コーヒーがなくてもランチセットは成立する。客が望めばコーヒーを紅茶やジュースに変えてもよいが、コーヒーを主としてランチのご飯や惣菜のほうを無くすことはできない。

第3に、「電車が目的地に着く」と言うときの「つく」がある。これは固定というニュアンスを多く帯びていた「付着」「付属」とは違い、主体の移動が基本にある。ただし目的地に主体が入る、到達する、その領域に接触するという意味あいは、上記2つと近い。

ところで「分別がつく」と言うときの「つく」は、これら「付着する」「付属する」の意味ではないようにおもわれる。そこで第4の「つく」がある。「見分けがつく」「見当がつく」はこれに入る。このときの「つく」はrecognitionが成立するという意味であるとおもう。

ここからはわたしのごく個人的な語感を述べてゆくにすぎないのだけれど、この認知や認識の意味の「つく」は、じぶんの指先が他人や自分の鼻や耳やほほに触れたときに、それが鼻であると瞬時に「わかる」という感覚に近い。つまり遅疑逡巡や精密な反省検討を加えたあとに徐々に判明してくるという「理解」や「解釈」ではなく、より直観的な認知のはたらきである。わたしたちの指先は感覚器官が密集しているらしく、とくに肌や顔のおもてに触れた瞬間、そこが鼻やくちびるや肩であるということが即座に「わかる」。おそらく脳で十分に信号を読み解いているのではなく、指先の感覚器官の時点で相当な処理を済ませており、脳による意味付けはそこに後から追いついてくるのだろう。考えるより先に、触れている・触れられている・これは鼻であるという認知が、接触の界面において発生している。

この能力は、おそらく、わたしたちの遠い祖先が仲間内でひたすら毛づくろいを繰り返すことで徐々に身につけられたのだろう。この接触即理解の直観はわたしたちの日常生活を強く規定していて、たとえば混んだ電車内や駅で他人の身体が自分に接触したとき、相手のどの部位が自分のどの部位にあたったのか、それが悪意のあるものなのか偶然のことなのか、さらには偶然であったとして相手がガサツな挙動をする人物なのか、むしろ自分の動作に原因があるのか、といったことを瞬時に把握するのである。ときに相手の不安や苛立ちさえわかってしまう。もちろん純粋な接触感覚のみが独立してこうした直観を与えているのではなく、視覚や聴覚の情報もそこに編み込まれている。

 

「見当がつく」「見分けがつく」と言うときの「つく」は、このタイプの、指先が相手の顔に触れた瞬間に生じる電撃的・直観的な認知である。「目鼻がつく」とさえ言う。デカルトのように対象を各部分に分割して個別に十分吟味しつつ理解を順次総合して完成させるのではなく、全体の様相から一挙に対象の本質をつかみとるというはたらきである。このはたらきは「私」が動作の起点となって順次行うものではなく、むしろうっかり触れてしまったときに私に先んじて既に生じているので、自動詞になり、「私」という主語を含まない。ただし「つく」はたらきを再度みずから意識して行うようなときには、たとえば「デッサンのアタリをつける」という言い方をすることもある。

 

さて、では「分別がつく」と言うときの「つく」は何なのだろうか。

分別は成長に従って徐々に身につけられてゆく。若いころは「分別が無い」。だから飲み会で一気飲みをさせたり、オウム真理教に入信したり、意味がほとんど無いような言い合いにエネルギーをつぎこんだりする。ところが年齢を重ねるにつれて、相応の「分別がついてくる」。この意味合いで考えると、「分別がつく」と言うときの「つく」は、「英会話能力が身につく」というときの「つく」に近いように思われる。つまりランチセットにコーヒーがつくときのように、まずわたしという本質が先にあり、次いで偶然の能力としての「分別」がそこに従属するという構図である。

しかし分別は道徳的な判断能力であると同時に、そのときどきに具体的に対象を獲得して成立する判断作用でもある。つまり、具体的な個々の場面に遭遇したとき、自分が何をすればよいか*1をその場その場で判断することに「分別」がある。この点で、「見当がつく」「見分けがつく」と同様に、対象の本質を瞬時に(皮膚的接触に近いレベルで)判別することであり、つまり分別は対象を必要とする。

しかしまた、分別は「わたし自身」の起居動作・生活を規定する。局外中立の立場から善悪を判定するのではなく、分別をつけることが、わたし自身のあり方をかたちづくる。だから「分別がつく」と言うときの「つく」の対象は、道徳的判断の場面や事例であると同時に、その判断を行う主体でもある。指先が相手の鼻に触れるとき、指先は相手の鼻だけでなく指先そのものを知る。これと同じことが道徳的判断で生じることが「分別」であり、判断される事例に対する直観が生じると同時に、直観により規定される主体が反作用的に(というか界面的に)生じる。以上のように考えてみることはできないか。

 

 

*1:分別の場合は「何をしないか」により重点があるような気がするが、ここでは考えない