しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

匂いのかたち

ここ数週間、とつぜん、ものの匂いに敏感になっている。季節の変化のためか、体調によるものなのかわからない。匂いという現象があるのだな、ということを改めて理解させられている。

 

とくにはっきりとわかるのが女性の香水である。以前は通り過ぎたときにふっと香りのかすかな残響を感じるぐらいだったのが、最近はもっと「鋭く」感じる。電車などで離れたところに座ったひとの香水がわかることもあって、不思議な変化というほかない。

 

香りを強く感じることがあっても、きわめて不快ということも、心地良いということもない。

もう少し詳しく言うと、強く感じるというより、「正確に」感じる。ピントが合う、というか。

たとえば匂いの強い香水や花などを鼻に近づければ、それまで弱く感じていた匂いを、より強く感じる。しかし最近起きている変化はこうした強弱の感度の変化ではなく、むしろ解像度の変化であるような気がしている。たとえて言えば、ぼんやりとした輪郭で見えていたモノが、コンタクトレンズを付けることではっきりと三角形のモノとわかることがあるが、それに似ている。もちろん嗅覚と視覚は違うので、匂いに三角や四角の形状があるのではない。しかしわたしに起きている変化はたしかに、匂いをそのように捉えるようになった(そういうことがたまに起きる)ということなのだ。芯を捉えるというか、質を捉えるというか…

 

この変化がさらに進むかどうかわからないけれど、香水だけでなくて、いろいろな匂いの「かたち」がわかるようになればたいそう面白いだろうと思う。雨のあと、濡れた芝土のうえを歩いていると、犬ならばこの匂いのかたちがはっきりとわかるのだろうとおもった。とてもうらやましいと思った。それからトンボが飛んでいて、トンボの匂いのかたちを知りたいと強くおもった。

 

(補足)

匂いにも視覚にも独特の本質が生まれてしまう。視覚の場合はそれを「かたち」と呼び、触覚とも対応させる。そうした「かたち」の直観はおそらく固定されたものではなく、無限に深化するものなのだろう。そうしてピカソとかセザンヌとかの芸術家が試行錯誤を重ねて作品を作る。ところがそのような、本質の本質を取り出してゆく作業は、おそらく「よく見る」といったことだけでは不可能なのだろう。見ることそのものを見なくてはならない。

嗅覚も聴覚も同様である。