しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

記憶を持たない人類

人類がこれから100年、1000年、1万年かけて進化してゆくとして、「記憶」の能力はどのように変わってゆくだろうか。

それは4つの可能性しかない。

1)記憶にまつわる諸々の能力や振る舞いは変化しない。未来のひとびとは現代人と同様にものを覚え、思い出し、忘れ、ごまかし、記憶にとらわれる。

2)記憶の能力は次第に強化される。未来人は現代人よりもずっと容易にものを覚え、思い出し、忘れることがない。個人だけでなく、たとえば過去に国家が行った所業もごまかされることはない。

3)記憶の能力は次第に弱まる。未来人は最低限のことしか覚えず、思い出さない。

4)記憶の本質が根底から変容する。具体的にどのように変容するのかはわからない。たとえば他人と記憶を共有できるようになったり、未来の記憶を持つことができたりするようになる。

 

わたしは案外「3」の方向もありうるのではないかとおもう。

「進化」といった概念を持ち出すと、なんらかの能力や器官が「強化」されてゆくと想定しがちである。しかし環境に適応して在り方が変わってゆくということだから、それが人間の「生存」に適しているのなら、記憶の能力が弱まってゆくという進化の方向もありうる。

 

そのように変化した人類は、どのように生活するのだろうか。

あるひとが激情に駆られて他人を殴ったとする。殴られた側は、恐怖や怒りや痛みや憤りを感じる。しかし数日経つと、そうした負の感情はほとんど消え去っている。殴った/殴られたという事実そのものはなんとなく覚えている。しかしそこに意味が生じない。両者はそれ以前と変わらず生活を続ける。

あるひとが事故や病で子どもを喪ったとする。親は激しい悲しみと混乱に襲われる。しかし数日経つと、そうした感情もどこかに消え去っている。家族が減ったので広い家を借り続けるのは不合理だと考え、子どもの服やおもちゃは捨ててしまい、別の部屋に引っ越す。

 

もし本当にこんな「人類」が出現したら、現代人にとってはたいそう非情で不気味な知的生命体に見えることだろう。けれどかれら未来人?にとっては、そうした生活は当たり前のことでしかない。かれらは過去よりも現在と未来に個々人や社会のリソースを注ぐことを選択したのだ。

人間や動物にとって、自分に危害を加えた相手や状況を記憶しておくことは、同じ危険にくりかえし遭うことを避けるために重要なことである。したがってそうした記憶の能力を切り捨てることが「適応」になるというモデルはなかなか考えづらい。しかし可能性としてはありうる。恨みや罪責感は人間のふるまいを強く支配する。そこにこそ人間の人間らしさがあり、情理や道徳が生じる土壌がある。けれどもこうした性質が、単純な生存にとっては足枷となるかもしれない。人間が「人間らしさ」を守りながら/守るために進化してゆくとは限らない。ペンギンは飛行能力を切り捨て、コウモリは視覚を切り捨てて生きのびた。いつか、恨みや罪責感に縛られた情理ある旧人類と、そうした「不要な能力」を持たずに旺盛に活動する新人類が地球上に同居するようになり、後者が前者を一気に殲滅してしまうかもしれない。その過程は案外すでに始まっているのかもしれない。