著者はレビー小体型認知症という珍しい認知機能の症状を持っており、30代後半から幻視や自律神経失調に苦しめられていた。本書は著者が50歳ごろの、症状が悪化しレビー小体型認知症ではないかと自身で気づき始めた時期の日記をまとめなおしたもの。
ひとつの切り口で要約できる本ではないのだけれど、わたしが読んでいて学んだことのひとつは、いわゆる「患者会」「自助グループ」「ピアサポート」といった環境がつねにすぐ機能するとは限らないのだということ。
10月30日 レビーフォーラム
レビーのフォーラムに行く。ネット上でお世話になってきた「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」の人たちと初めて出会い、話ができた。名前だけ知っていたOさんらとも。そうそうたる方々。
帰りの電車でなぜか涙があふれる。レビーに精通した人達と出会えたから? 10年進行しない人もいると聞いたから? でも寂しさも感じている。私は、あの会場にいた人たちのグループに属していない。
あちらの世界とこちらの世界があるのなら、私は、既にあちらの世界の住人になっている。夜中に殴り掛かられて苦しめられる家族の側ではなく、(いつか)家族を苦しめる側の世界。(41頁)
11月26日 若年認知症の会
昨日は、若年認知症の「彩星の会」に初めて行く。認知症本人をサポートするボランティアとして参加。
(…)とてもしっかりした大きな会で、素晴らしい人達が集まっている。なのに孤独を感じる。私は、まだ「本人」のグループにも入れない。でもサポートする側のグループにも属さない。
明るく歌ったり踊ったりしている部屋を出て、介護家族の集まる隣の部屋を覗いた。深刻な顔で話をしている。そのギャップに衝撃を受ける。
やはり私は、どちらでもない。(55頁)
著者は自分と同じ病をもつひと、またそのひとびとの家族が集まる会合に参加する。著者は自分のことを、病を持つ「本人」として定位することがまだできず、かといって介護家族のグループにも属していない。著者は自分と近しいはずのひとびとが集まる場に行くが、かえって「寂しさ」を感じることになる。
この病と(いまのところ)縁遠いわたしにとって、患者も家族会も、ひとつのおおざっぱなカテゴリに見える。そこに行きさえすれば、どんな患者でも同志を見つけることができるだろうと思い込んでいる。しかしそんな簡単な話ではなかった。その症状や疾患をもつ「本人」であること(またその家族であること)は、外野からの「診断」で完結することではなく、(雑な用語法だが)そのひとのアイデンティティに属することである。病や苦しみがアイデンティティになるまでには、きわめて長い時間と辛苦と奇跡が必要になる。その途中過程では、「自分はどこに属しているのか」という問いはそのひとにとってきわめて切実なものとなる。患者会に行きさえすれば解決するというものではない。