しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

音と時: いつのまにか雨が止んでいる

 たしか火曜の真夜中、雨がざああと窓の外で降り始めた。そのざああの音を聞いてしあわせな気持ちになった。まさにいま降り始めた細かな「ざああ」のなかへ、強くて芯のある「ざああ」がさらに補充され、音の密度が高まってゆく。落ちる雨粒の一筋ずつを聞いているわけではないのに、たしかにその雨の線が増えてゆくのがわかる。「ざああ」は遠くからこちらへ近づいてきたものであり、空から増えているものでもあり、窓の外の地面や屋根の表面で生まれているものでもある。「雨が強くなった」「雨音が強くなった」と表現してしまえばそれまでだけれど、わたしの耳から地面と空へ広がる世界、世界からわたしの耳へと収斂してゆく構造はとても多層的で複雑で、これをどう描き直すことができるのか、むずかしい。

 

 ところで雨が降り始め、強くなっていったというまさに「そのとき」を、そのとき「いま」においてわたしはたしかに感じ取っていた。雨音はわたしの隣にあり、わたしの外側にあり、雨音が包む世界の内にわたしは座っていた。そのときの、「とき」のもとで、洗濯物干したままになっていなかったよな、とか、天気予報でたしかに言っていたなとか、ささやかなしあわせなかんじ、などのいろいろなことがわたしに去来した。雨がまさにいま降り始めたということを確かめることができた。

 

 ところが一時間ほど経っていたころ、気づくと雨がやんでいた。降り始めたときはあんなにはっきりと音を聞いていたのに、「雨がいま止んだ」という、その瞬間を捉えることが全くできなかった。

 雨はいつ止んだのだろうか。

 いつのまにか止んでいたなと気づいたとき、雨は確かに止んでいる。雨が降りはじめて、なお降っているなと感じていたときがあった。その中間のどこか、「いま」と「降り始め」の間のどこかで、雨が止んでいたはずだった。けれどもその「止んだ瞬間」を確たるものとして掴まえることができない。把握できないけれど、どこかのその時点から時間が引き続いて、雨が止んでいる「いま」に迎えこまれている。たしかに雨が降っていない「いま」は、その起点を過去のどこかに持っているけれど、それはもはや確定できない。強いて言えば「いつのまにか」が「いま」の基盤である。

 この「いつのまにか」とはどのような現象なのだろうか。「いつのまにか」は確かにわたしの支配する「いま」に従属しているけれども、その由来をわたしが確定することができない。「いつのまにか」はまさにいつのまにか私の時間に忍び込んでいる。こうした「いつのまにか」の支流は単一ではなく、「いま」にはさまざまな「いつのまにか」が多層的に流れ込んでいる。さらに、そうして成立している「いま」は、いつのまにか、未来のある時点へ向けた「いつのまにか」に変ずる。

 「いつのまにか」がその「いつのまにか」性を獲得するのは、その事件が成立した瞬間ではない。それが獲得できないから「いつのまにか」なのだ。いつのまにかは、いまのわたしが「あれ、そういえば」と気付き、さかのぼることで「いつのまにか」性をともなって現れている。いつのまにか性の本質のひとつは、遡及性にある。では、どのようなときに、どのような条件で、「いつのまにか」への遡及が始まるのか。これがやはり、指定できない。「そういえば、いつのまにか雨が止んでいた」と気づくことになる。「いつのまにか」とひとが言うとき、しばしば「そういえば」と前置きが必要になる。「いつのまにか」がいつのまにか性を持ったものとして「いま」へ受け入れられるとき、それもまた時点としては把握しているものの、理由や原因が割り出し難い。つまり「いつのまにか」は、起点においても謎であり、遡及開始点としても謎であるような現象だ、ということになる。