しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ステッキをついて出勤する

おばあちゃんが亡くなった。おばあちゃんと言っても家系図上では「祖母」ではなく、「母方の祖父の兄の妻」というむしろ遠い関係である。ただ、おばあちゃんと言えばこのおばあちゃんだった。わたしの家系は女性が多く、以前かぞえてみたら(故人含めて)15人くらい「おばあちゃん」がいた。そのなかでわたしたち家族にとってはもっとも身近なおばあちゃんだった。

今年に入ってから急に血圧や各種の数字が悪化し、入院して2週間ほどで亡くなった。そのプロセスに入る直前、つまり入院というイメージはまだ持たず、もうしばらくは元気でいてくれるだろうと曖昧に思っていたころ、妻と二人で彼女の部屋を訪れた。コロナで会いに行くのを控えていた。妹には二人の男の子がいるが、さらに弟に女の子が生まれたばかりであること、わたしたち夫婦は2ヶ月後に出産を控えていることを教えた。急に情報が増えておばあちゃんは少し混乱したようだが、少なくとも目の前の妻のお腹は大きいし、スマホで見せた弟の娘の動画を見て、これもとにかく何事かを了解したことは間違いなかった。

しかしその「場」がなかなか持たないのが少しつらかった。わたしが物心ついたときから、おばあちゃんはわたしに一方的に「与える」側だった。おやつや食材や、植物についての知識や、わたしが生まれる以前のこと。押し付けるのではなく、ただそこにいて、無限にわたしたちに供給しつづける存在だった。モノや時間や知識だけでなく、ただそこにいるということを贈与していたのだとおもう。

しかし、いまやそれは逆転してしまった。わたしは全くの任意に彼女の部屋を訪れることも、遠ざかっていることもできた。そしてある種の「意味のある偶然」なのか、ともかく彼女の意識がいよいよ消失の段階を踏んでゆく直前に会い、鉢植えと果物、湊川神社の御札、彼女の夫が遺した半世紀前のスライドフィルムなどを与えた。わたしは与える側になってしまった。おばあちゃんは全く逆転して、ただ受け取るだけの立場になったようだった。おそらくお互いに戸惑っていたのではなかろうか。

急に増えた赤子たちのことを整理するため、わたしは手近な紙に、わたし・妹・弟の配偶者と子どもの名前を大きく書いた。そして部屋を辞した瞬間、ふたつの思いが生じた。ひとつは圧倒的に与える側に突然回ってしまったことの困惑あるいは罪悪感である。もうひとつは、わたしたちが訪れたことを彼女はきょうの夕方にも忘れてしまうだろう、という予感である。だとしても、それでいいだろう、なにかがお互いの身体に沈殿してゆくだろう、とも思った。それはまさしく彼女がわたしにずっとしてくれてきたことである。物心付く前から、おばあちゃんはわたしに膨大なものを与え続けていた。そのひとつずつをわたしはほとんど覚えていない。けれども残っている。だから今回もお互いに同じようにした、というだけのことだろう。お互いの忘却のなかで呼び合い、結びついたものがあるのかもしれない。

ところが後に母から伝えられたところによると、おばあちゃんはわたしが子どもたちの名前を書いた紙に、「耕平が来てくれた 嬉しかった ありがたい限り またお願いします」と書き付けていたという。おそらく彼女自身、自分の記憶の限界を自覚していたのだろう。おそらくわたしが去った直後に、来訪をすぐ忘れてしまうことを予期して、数時間後の自分への書き置きとして記したのだろう。じぶんの時間が着々と流れてゆくことに圧倒されている。それでもなお抵抗を試みた、とわたしは解釈した。わたしが「お互いの忘却のなかで呼び合い、結びついたもの」に甘んじていられるのは、両者の歴史の接面でわたし自身が意識と記憶をそれなりに保っていられるからである。おばあちゃんはそれができない。なるほどそうした結びつきがあったとしても、自分自身の行為や意識そのものがその忘却に轟々と引き込まれつつあるなら、そこに甘んじてはいられない。いまおもうと、わたしが本当に与えたかったのは「いま」だったのだろう。それは難しかった。

 

お通夜の予定を母から知らされ、仕事を一時間早く切り上げて行くと伝えた。朝、出勤するとき、おばあちゃんの夫が遺したステッキが玄関に2本あるのに気づいた。そのうちの1本をついてそのまま出勤して、春日野道から高速神戸駅で阪急に乗り換えて新開地駅で降りた。ステッキを棺のうえに置いた。元の持ち主に渡してくれるだろうという、いくぶん儀式的な振る舞いだったけれども、与え損なった「いま」がやや希薄され転質しつつ、ふたたび静かに湧出しているようにもおもう。あまり論理的ではないが、まあ、これでよい、という感覚があった。

 

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