しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

震災が始まる

ことしは震災が始まるのが早いなぁとおもう。

例年は秋の終わり頃から徐々に震災が始まって、年が開けるとより本格的になり、1月17日が終わると静かに外れる。そのサイクルがある。

単純に自分の内心のイメージとして始まる・切り替わるというより、被災地に「入る」という感覚がある。それと同時に身体のモードもなんとなく変わる。同じ街であるのに、そこに立っている建物も街並みも行き交うひともそれぞれひとつずつのものであるのに、二つの世界が重なって並立していて、その片方からもう片方に移動するという感覚のような。

そこに「入った」とき、今年も震災が始まったと感じる。有りていに言えば「震災モード」「想起・追悼モード」ということにすぎず、要するに世間の雰囲気みたいなものの感じ取り方の切り替わりでしかない。のかもしれないけれど、雰囲気や感覚という濃淡や流動のある変化ではなく、それとして確固として(けれどもひどく薄く)存立している世界でもある。

 

実際にそう感じるのは、たんに街中を歩いているようなときが多い。あ、入ったな、と感じる。それは毎年おおむね、11月ぐらいの、秋と冬の境界あたりである。実際、そのころになるといろいろじわじわと震災に関する情報が増え始め、たしかにそれらにモードの切り替わりを誘導されている。

そして1月17日が終わると、視線が北の地平線を遠望し始める。

 

今年はその切り替わりが早い。たまたま、いろいろなひとに会って話を聞いている。季節のリズムにまかせていた変化が、ひとのこえのリズムや波長に共振して生じている。皮膚や足裏の重心の感覚がちょっとズレて、世界がぱたぱたざわめいている。とにかくすたすた歩くしかないような状態です。