しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

Tochka Nisshi

 まちを出歩くひとの数が少しずつ増えている気がする。そりゃそうなるよなぁとおもう。

 以下は印象論に過ぎないけれど、この国では有権者も政治リーダーも科学的な対応ということを一般的に好まないのではなかろうか。ここで言う科学的な対応とは、「AをしたらBが起きる」「CをしなかったらDは起きない」という論理的な関係を徹底させることである。今回の感染症対応に関して言えば、「社会的接触を減らせば、感染拡大を防げる」ということになる。

 日本でもたしかに対人接触は減った。しかし「ある程度」にとどまった。科学的であるためには、「Aであれば、Bとなる」の「A」に当たる部分をできるだけ徹底して、純粋にする必要がある。すなわち可能な限り徹底的に・厳密に・厳格に外出を制限することが求められた。ところが社会全体の動向を見ると、「まあまあそこそこ減らす」というところで妥協した。だから、「Aであれば、Bとなる」という論理関係が曖昧になって、「それなりに社会的接触が減ったから、どうやらそれなりに感染拡大が収まっているっぽい」というぼんやりとした把握にとどまった。結局、何が成功で何が失敗だったのか、明晰な知識を社会に沈殿させることには失敗した。

 

 もちろん、封鎖は多くのひとの生業を奪うので、厳密であればあるほど良いということにはならない。たとえば接触を99%断つのではなく、75%減らすことが最良の塩梅なのかもしれない。だがその場合も同様で、「社会的接触を75%にしつつ経済活動も最低限維持することで、最終的な利得(感染拡大抑止と経済温存)が最大になる」という仮説を確認するために厳密な条件の統制を行ったのではなかった。「なんとなく」で75%ぐらいになり、同じく「なんとなく」最終的な利得が最大化されるのかもしれない、そのうち75%が65%になり50%になるんだろうね、という雰囲気が広がる。やはり同じことで、条件も結果も曖昧にしてしまっているので、何が成功で何が失敗だったのか、その知識をわたしたちは得ていない。

 別の言い方をすれば、現在の政治は賭けを避けている。理念上は何度でも条件を揃えて同じ実験を繰り返すことができ、それが人間の社会生活に影響を及ぼさない通常科学と異なり、「都市封鎖をする」という条件統制は一つの社会的な賭けである。賭け金は市民の生命である。都市封鎖をすることで感染拡大が止まるという確証は無い。結果を事前に知ることはできないので、どのような選択をするにしても賭けになる。だが賭けをせざるをえないし、賭ける以上は全額を賭けなければならない。それが裏目に出る可能性もある。スウェーデンは賭けに負けている。だがそれによって、少なくとも、何に失敗したのかが明確に理解されている。他方で日本では何に賭けているのかがわからない。全ての馬に等額ずつ賭け金を置いているようにも見える。ブラジルは「何もしない」という馬に賭けているが、日本はそれとも異なる。

 

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きょうはすごく幸福なことがあり、すごく自分に失望することがあった。