しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

特別な皮

世の中には膨大なる種類の皮がある。

皮は剥いたり、めくれたり、はがれたり、余ったり、傷ついたりする。

他の言語ではわからないけれど、日本語の「かわ」はすべての「かわ」を意味していて、その範囲は広い。桃の皮も大根の皮もスイカの皮も皮である。動物の皮は漢字の上では「革」が使われることもあるが、まぁ皮は皮である。犬やウサギをなでているとき、そこに「皮」があると意識することはあまりないけれど、焼き鳥屋にいけば鶏皮がある。泳いでいる魚は魚であって、肉と皮を区別しないけれど、河豚やら鱧やらを食べるとなると皮がある。そして人間の皮がある。自分に皮があることを知るのは、皮が皮として現れているときである。現れるときは自分の皮でも他人の皮でも徹頭徹尾皮であって、皮でないものが見方によっては皮であるという半端な現れ方ではない。

そうしたひとつずつの皮をカタログに並べても、いまひとつ共通点や普遍性や本質といったものがあるわけではない。スイカの皮と河豚の皮の共通点を見出すことは難しい。綿密な還元を繰り返せば皮の本質といったものが現れるには違いないのだが、そうした分析を進めている間にもこの体は皮に包まれている。包まれていることを意識しないとき、皮は現れていないが皮膚が剥ぎ取られているのでもない。包まれているという感覚を捨てて、皮を皮として対象化すると皮が現れる。そうしない限り、皮はない。あるのだけれど。

 

このように皮は不可思議なる現象であり、具体的な「皮」は野菜や魚や人間存在の数だけあるけれど、そのなかで歯茎にへばりつく皮はトマトの皮だけである。不思議にもほどがある。