しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

絶句

昼間、このエントリを拝読して言葉を失った。

自分自身が授業料減免制度を利用してきたし、後輩たちもおそらく利用しているからだ。

じぶんは大阪大学で院生をしていた5年間、前期課程2年間と後期課程1年目は半額免除、後期課程の2-3年目は全額免除していただいていた。 とくにD2で全額免除になったのはとても嬉しくて助かった。今年も半額免除だろうと思って判定一覧表を見ていたら自分の番号が無くて焦り、念の為全額免除の表を見たらそちらに載っていた。

リーディング大学院の履修生に採択されていたので、毎月20万円の研究奨励金をいただいていた。半額免除のときは、その20万円から1万7千円ほどを毎月授業料のために取り分けていた。全額免除になるとその分を丸々研究に使えることになった。本を買うなり学会への旅費に使うなり、とにかくありがたかった。

税金から支払われていた20万円から、ふたたび国立大学に授業料を支払うのは奇妙な気分だったけれど、とにかく半額免除も全額免除も貴重このうえなかった。20万円のうち10万円はどうしても生活費になる。そこから社会保険と確定申告分を除いた額が、書籍代や学会費や旅費、フィールドワーク等に使えるお金となる。1万7千円が浮くか否かはかなり大きい。研究奨励金や給付型奨学金の無い院生にとってはさらに言うまでもない。

 

真っ先に研究室の後輩たちの顔が浮かんだ。あるいは、いったん就職したけれど大学院に戻りたいと言っていた学部卒の子たちや、こいつは院進したらオモロイやろなとおもった学部生の存在を思い出した。自分だけ、沈没船から救命ボートに一足先に乗ったような気分だ。

 

理由が全く解せない。

大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。

まず18歳人口比で考えるのが間違っている。大学院進学は社会人教育・リカレント教育・生涯教育の視点で考えるべきだ。新卒就活生養成コースとしてのみ大学院を捉えるのは制度設計としておかしい。

「5.5%に留まっており」という表現もよくわからない。「5.5%にも達しており、多すぎるので抑制するため」という趣旨ならば、賛否はともかく筋は通るのだが。

「短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要がある」に至っては、最悪の理由付けだとおもう。これは授業料減免を、国家から研究者の卵への「施し」「サービス」と捉えていなければ出てこない理由付けだ。

短大・専門学校卒業者の利得と、院卒者の利得を比較するから話がおかしくなる。前者は若いころから稼いでがんばっているのに、後者は自分で稼がず、奨学金もらって好きなことしてる、みたいな。そりゃ短大卒業生の立場から見れば、院生はそのように映るかもしれない。しかしその公平感・不公平感の「バランス」を国家の制度で取るのは最悪だ。社会全体の長期間の利得という視点で考えなければならない。大学院生がいなくなれば、研究者がいなくなる。研究者がいなくなって制度や技術の革新が無くなれば、短大・専門学校を卒業してがんばって働いているひとの労働市場も消えてしまう。教育制度の整備や、奨学金・授業料減免制度の設計は、こうした意味での「バランス」に対する投資であるはずだ。若いときから頑張ってる人もいるから的な、お小遣いの公平さ的な「バランス」をとるのは少なくとも文科省の仕事ではない。文科省はむしろ、これは不公平ではなく全員に利得が返ってくる投資なのだと説得する立場のはずだ。(そもそも短大・専門学校で教える教員がいなくなるではないか…)

 

お金が無いから止めます、とだけ言えばいいのに。むちゃくちゃだ。

絶句とタイトルに付けつつ、長く書いてしまった。怒りしかない。