時が経ち、時代が移り変わってゆくという感覚がいまひとつ自分の中に無いような気がする。
たとえば、昭和初期の都市や田舎の風景を撮影したフィルムの映像を、テレビやネットで見ることがある。
白黒の焦げたような陰影のなかを、当時の人々がちょこまか動き回っている。現代ではもう使われなくなった道具や、古い街並みが映っている。それは確かに「古い」。過去の時代の風景であるとわかる。
ところが、現代の、今日の、まさに今の目の前の風景を眺めているとき、人々の立ち居振る舞いや広告やら、その他わちゃわちゃした営みが、70年前、80年前の映像ときわめて別種のものであるというかんじを持つことができない。
この風景を撮った映像を80年後に観たとき、それを昭和初期の映像と区別できるだろうか。もちろん区別できるのだけれど、それは映っている個々の事物をいちいち判別しているからであって、そうした判別をいったんストップしたとき、はたして根本的な区別がそれでも現れるであろうか。それでも区別される部分も見出すことはできるだろうけれど、そうでない部分の方に自分はより引き付けられる。移り変わってゆくものを重ねて透かし見ると、もとの流れがある。
言いかえると、「時代」や「変化」という言葉にわたしはどれくらい信を置くべきだろうか。こういう、変な疑問がある。「時代」という言葉をことさらに意識せねばならないという不思議な時代であるのではないか。結局、ちょこまかわちゃわちゃ動き回っているだけではなかろうか。時代の変化ということをさかしらに言い立てるよりも、ちょこまかの細部をひとつずつ見ることのほうが実は必要なのではなかろうか。