しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

そこにおった誰か

 露宇の戦争が始まった当初、現地からの映像をできるだけ見ないようにしていたのだけれど、1週間ほどでそれをあきらめた。完全に見ないままでいることもやはり無理だと理解した。そして最初に見たのが、たしかキエフ近郊の湖上をNOE飛行しているロシア軍のヘリコプターが撃墜され水面に落ちる映像だった。ああ、中にひとが乗っていたのだ、とおもった。操縦士と副操縦士で最低でも2名、兵士を輸送していればさらに多い。

 そしてまた、避難中の民間人が乗った自家用車がBMPの機関砲に撃たれる映像や、対戦車ミサイルの操作画面内に映る戦車の白いシルエットが散乱する映像や、お祭りの花火のように市街にゆっくり垂れ落ちる焼夷弾頭の映像や、戦車のハッチに手榴弾を投げ入れるドローンの映像や、塹壕で友軍の兵士が追い詰められる様子を撮り続けるドローンの映像などがあった。

 あ、その中にひとがおるんやんな、その着弾地点にひとがおるやんな、そこにひとがおるやんな、という感覚があり、そこでだいたい止まってしまう。

 いる、いた、おる、おった、という実在の感覚が映像にもあって、その感覚は日常生活で持つ「おる」とほぼ同じ次元にある。しかし日常生活では付近にいるひとの「おる」が水面に叩きつけられたり30mm機関砲で爆砕されることはない。

 この「おるやんな」「おったはずやんな」にとまどったまま、毎朝毎日あたらしい動画がやってくる。そのひとつずつに「たしかにその中にこれこれのひとがおったんです」と教えられることはまず無い。ないまま、あれ、あれ、れ、というだけで映像が通り過ぎてゆく。