しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『春と修羅』ノート(「序」その3)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

「わたしといふ現象」は「ひとつの青い照明」である、と言う。照明そのものが、その明滅において自らを語る。その照明を灯しているのは「仮定された有機交流電流」であり、「因果交流電燈」である。はじめは交流しているものが「有機」であると言われた。つまり照明の源泉となるものが、宇宙に偏在する物質であることが語られた。ついで、その電燈は因果交流電燈でもあると言われる。交流するものは物質だけでなく、因果でもある。交流は双方向のやりとりであり、電燈はその経由地点の一つにすぎない。ある方向から原因が流れ込み、結果がつながってゆく。逆の方向から原因が流れこみ、結果が生じてゆく。電燈はその結節点であり、その関わりによって「ひとつの青い照明」が灯る。

そうして2回繰り返して「わたくしといふ現象」が「…です」と言い切ったのに、それを追う声は「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」と語る。電燈抜きの光などありえるのだろうか。ひかりはもはや電燈を必要としない。ひかりはたもつ。保つとは、その主体がみずからを気遣い、変わらず存在するように工夫することである。ひかりはただ明滅しているだけでなく、「風景やみんな」といっしょに淡くおのれを存在させながら、ただ一方通行に照らすのではなく、自分自身に向かい、たもつ。電燈は失われる。有機と因果が交流する場であった電燈はついに時間の経過に耐えられず摩耗し、失われる。ひかりは残り、自らを保つ。そのようなことは可能なのだろうか。それは詩人の願望にすぎないのではないか。

これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりずつ

そのとほりの心象スケッチです