しずかなアンテナ

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『風の谷のナウシカ』とは正反対の選択――『人形の国』9巻

1巻から楽しみに読んでいた弐瓶勉『人形の国』が本日発売の第9巻で完結した。8巻末尾の時点でかなり登場人物や状況が拡大していたので、最終9巻でどう畳むのかと思っていた。実際に読んでみると、やはり大急ぎでラストに突き進んでいるという印象を持つけれども、著者の当初からの予定どおりだったのかもしれないとも思う。連載打ち切りだったのか云々を推量することは作家に対して非礼だろう。

 

ところで本作はコミック版『風の谷のナウシカ』を意識した作品のように思う。絵柄や世界観や物語設定に近しいものを感じるし、一部の挿話的なエピソードにも似たものがある。

そのため、一読者の勝手な読み方ではあるけれど、『ナウシカ』を下敷きとしてこの物語を読んでゆくとき、最後の展開がどうなるのかに大きな興味があった。そうして『人形の国』最終巻を読むと、ちょうど『ナウシカ』と正反対の選択が為されたと思った。その対比が面白いので、以下整理して書いてみる。

(以下、両作品の末尾の流れをたどりながら書いています。)

 

『ナウシカ』では、トルメキアと土鬼の両帝国が消耗する決戦のなか、ナウシカと巨神兵オーマは「墓所の主」に対峙し、墓所が準備した世界再生のプログラムをナウシカは否定する。墓所のプログラムでは、ナウシカたちが住む世界に広がる腐海や攻撃的な蟲たちも、「火の七日間」(あるいはそれ以前から続く工業活動も含めた)による汚染を浄化する装置であり、長い長い期間を経たあと、最終的に浄化された世界が人類に返還されることになっていた。いまの人類自身の身体も腐海の毒に対応するよう改造されている。墓所の技術によって人類の身体を清浄化した世界に再対応させなければ、その世界に入った現人類はすぐにでも血を吐いて死んでしまう。この墓所のプログラムが完了したあと、そこには平和で汚染の無い世界が広がり、その内部では穏やかで賢明な新人類が悠久のときを営むことになる。

ところがナウシカはそのプログラムの核心を理解したうえで、「生命は闇のなかの瞬く光だ」と言い放ち、墓所の主とその技術を旧世界の大量破壊兵器である巨神兵オーマの力によって消滅させる。たとえ未来の清浄な世界から拒まれようとも、いまの腐海、蟲たち、粘菌、そして地上の人間たちの生命そのものの「またたき」に立ち戻る。太古から仕組まれた、至福の世界を約束する賢明なプログラムに保護されて生きることを望まない。

 

『人形の国』9巻の展開を追うと、ナウシカの選択とはちょうど正反対に決着する。登場人物の多くは戦死するが、その生体情報は地下世界アポシムズに保存されている。そこはナウシカの「墓所の主」が保証するのとほぼ同じ、平穏で理想的な世界である。タイターニアはアポシムズの管理者であり、墓所の主と基本的に同じ立場である。

主人公エスローと最終ボスであるスオウニチコは、結果的に、いずれもアポシムズへの帰還を目指すことになる。ただしスオウニチコは自らの野望を優先し(必ずしもその核心は描かれていないので、エスロー/タイターニアと彼が対決する必然性が不明瞭なままなのだけれど)、アポシムズを消滅させようとする。反対にエスローは、タイターニアの案内に反発することなく、(いちど死んだ)地表の人々がアポシムズに帰還することを助ける。タイターニアが墓所の主だとしたら、エスローは墓所の主に力を授けられ、そのプログラムに助力する土鬼皇弟・皇兄に近い。エスローはタイターニアとアポシムズに疑問を持たず、それが保証する平和で静かな世界にたどりついてしまう。

(『人形の国』9巻の最後のコマは、ナウシカがセルムに案内されて腐海の尽きる土地に足を踏み入れたときの「土がある」というコマにかなり似せて描かれているように思える)

 

あるいは、ケーシャとエスローは再び2人でアポシムズを出て、かれらの国を再建するのだろうか。タイターニアがそれを許すのか。そこが本作品の本当の決着点なのだろう。その緊張感を暗示しながらの、仮初の大団円ということなのかもしれない。