しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『春と修羅』ノート(「序」つづき)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

「幽霊の複合体」は、けっきょくよくわからない。「わたくし」は確実な実体というより、いまさしあたりあらわれている現象であり、照明である。その明滅的な宣示を、「あらゆる透明な幽霊の複合体」という声が追いかけてくる。照明とはいえ「わたくしといふ現象」はいまこの紙上で生きているが、幽霊は過去からのもの、死んだものである。

次の行に進んでみる。「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」。仮定された有機交流電燈の照明は「せはしくせはしく」明滅している。確実で恒常的な直流電流が送り込まれ続ける電燈からの照明ではなく、リズムは保たれているけれど確実なものは保証されていない照明が自らを照らし出し、消えてしまい、また照らし出す。それは照明が独立自存したものではなく、交流のリズムや不安定さを送り込んでいる別のものとの関係によって照明が灯っているということでもある。照明が自らの力で煌々と輝き続けるなら、それは神仏の無限の光である。「わたくしといふ現象」は自分以外のものとの接続によってやっと成立している。

その明滅はただ照明のみの状態の記述ではない。「わたくしといふ現象」は、「風景やみんなといつしよに」明滅する。照明が明滅すると、「風景やみんな」もいっしょに明滅する。照明が明滅しなくても「風景やみんな」が変わらずあるのではない。照明が届く限りにおいて「風景やみんな」は灯り、照明が消えると「風景やみんな」も消える。照らすものと照らされるものは距離があり、別々の存在であるけれど、明滅は同時である。ひとつの照明のなかで両者が別々に際立つ。その明滅のなかで作品が描かれている。(明滅の主導権は果たして照明にあるのだろうか。)

ここまで「照明」が、その成立において独立自存したものではないこと、さらにその照らし出しにおいても独立自存したものではないことを強調してきた。けれども、その照明は「いかにもたしかにともりつづける」ものでもあると言う。「せはしくせはしく」明滅していることは、それが脆弱なものであることを意味しない。