しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

声が詰まる。

 なぜひとは、うまく話せないことがあるのだろう。あらゆる人類が、機械音声のように、ただ情報伝達としてのコードを口から発音するだけなら、どれだけ「楽」だろうとおもう。

 

 おもわず喉もとが硬く締め付けられて、ことばがうまく出ない。相手の相槌を待つことなく、だだーっと一気に話してしまう。目をうまく合わせることができず、声がくちびるを出たところでうろうろさまよってしまう。言葉の代わりに涙がじわっと出て、何も話せなくなる。手が震える。変な力みが耳の後ろから首にかけてこわばりを作る。声が裏返る。

 

 「こうすれば落ち着いて話せます」という指南書は世の中に溢れているけれど、そういった心理的テクニックのみで全てがコントロールできるわけではない。披露宴でも葬式でも就職面接でも、全て似たように朗々と落ち着いて言葉を垂れ流すことのできるひとがいたとしたら、それはきわめて不気味である。

 

 人間は言語を自在に操ると思われているけれど、じつのところ身体において「声」はとても弱い器官である。単語の羅列を情報としてすらすら叙述することはできず、身体のほうが実はしばしば主権を行使する。

 といっても、明確な単一の主権者が心身のどこかに存在するのではなく、単語、声、音、喉、舌、息、これらすべてが連立与党を構成していて、そいつらがときたま足並みを乱すということなのだろう。おおくの人は、それらの連立与党を最終的に統括する最高位者として、「意識」や「脳」や「わたし」が存在すると仮定しているけれど、現実にはそんな統括者は存在しないし、存在していたとしてもきわめて弱い権限しか持っていない。だからこそ、取り乱すとか、思わず声に詰まるといったことがひとには可能である。

 

イラク帰還米兵のはなしを聞きに行った。

 豊中国際交流協会の小さなイベントに行った。

 アッシュさんという名前のお兄さんが、戦地での自分の体験を話した。

 アッシュさんは「イラク帰還米兵」である。高校卒業後に州兵に入隊し、計6年間、従軍した。かれはクウェートイラクにいた。

 

 アッシュさんはいろいろなことを話した。話の芯にあったのは、軍隊は基礎訓練で兵士のアタマを作り変えてしまう、ということだった。たしか、「神経を取り替えてしまう」「brain washする」という表現を使っていたとおもう。

 どのように作り変えるのか。それは、派遣先の現地のひとびとを、ひとりずつの人間だと感じないようにする、ということである。

 

 クウェートイラクで、アッシュさんたち米兵は、地元のひとびとを「ハッジ」と呼んでいた。本来は「巡礼」という意味だけれど、米兵たちはこの言葉をthing、つまり「モノ」という意味で使っていたという。

 モノなので、それが困っていても、ケガをしたり死んでしまったりしても、兵士たちは何も感じない。たとえば道端で車が故障して立ち往生している同胞を見れば普通は助けようとする(兵士たちはそのための機材も持っている)が、それがイラククウェートのひとびとなら、「壊れた椅子が道端に放置されているのと同じ。椅子の脚が折れていても、わざわざそれを修理するために車を止めることはない」と。

(かれは話の流れで「車が故障して困っているとき」というたとえを用いたけれど、現実にはもっと生身にひどい状況があったのではないかとおもう。つまり、脚を骨折したり大怪我している現地民を見ても、椅子の脚が折れているようなものと感じていた、ということだったのではないか)

 

 このような感じ方をするのは、アッシュさんや他の兵士が悪人だったからではない。軍隊が兵士の精神をそのように作り変えてしまうのである。たいていの兵士は、つまるところ普通の若者たちにすぎなかった。

 アッシュさん自身は、大学進学のための資金を求めて入隊した。「軍隊は少年を一人前の男にする」というのがアメリカでよく使われている募兵の宣伝文句だそうだ。アッシュさんを含めて、多くの若者たちが、それを素直に信じて入隊してくる。しかし現実には、かれらは疲弊しきって、神経をびりびりに張り詰めて帰国する。

  

 アッシュさんは最後に印象深いエピソードをいくつか話した。

 戦地でかれが基地の見張り台に立っているとき、地元民の男性が、基地の周囲で何か作業をし始めた。米軍基地の周辺は非常に危険である。見張りの米兵もしばしば彼をいぶかしみ、銃口を向けた。そのうち、この男性は苗を植えているのだとアッシュさんは気づいた。麦の苗だった。緑色の畑地が基地の周辺に広がった。

 そこで初めてアッシュさんは、この男性がハッジ(=モノ)ではないと強く気づいた。なぜこのような危険な場所で農作業をしているのか。それはこの男性が、自身やかれの家族を食べさせねばならないからだ。アッシュさんの祖父も、大恐慌時代に苦労して働き、家族を養った。ただ生きのびるために、子供たちを飢えさせないために、危険を冒して苗を植えている。それはイラク人でもアメリカ人でもロシア人でも同じことにちがいない。このようにアッシュさんは言った。

 

 帰国してから、どのように元の生活に再適応してゆきましたか、と質問した。アッシュさんは2時間ちかく話しつづけていて、この質問をしたときはだいぶしんどそうだったけれど、とても丁寧に答えてくれた。曰く、帰国した直後は感情の制御ができず、かれの家族や恋人にとって、すごくすごく危険な存在だったという。かれと活動を共にしている通訳の方が「かれはいまangerと言いましたけれど、もっと言葉にできない、ぐつぐつした感情でしょうね」と補足してくださった。

 そうした状態が3, 4年つづいた。転機のひとつが、ベトナム戦争帰還兵と話したことだった。彼らはやはり同じような体験をしているので、感情の障害や苦悩などをすんなりわかってくれた。わかってもらえたこと自体に驚いた、ともアッシュさん言った。かれは自分の心理を分析していった。「心の中に箱があって、それを開くとまた小さな箱があって、開くとまた箱があって…と、くりかえすようなもの」と言った。わかりやすいたとえだと感じた。(リフトンがベトナム帰還兵との対話の描いた Home from the Warに、たしか玉ねぎの皮を一枚ずつ剥いてゆくという喩えが出てきたような記憶があるが、定かでない)

 

 ひとつ知識として知ったのは、イラク帰還米兵がベトナム帰還兵と体験を共有できるということだった。この2つの世代の間には湾岸戦争というもう一つの戦争があるのだけれど、おそらく「負けた戦争」の兵士同士のほうが何かと通じやすいのだろう。

出っ張ったところと凹んでるところ(おちんちん考)

 おちんちんは出っ張っている。おまんこは凹んでいる。おちんちんというものがここまで出っ張っていなければ(哺乳類がペニスという器官を持たなければ、ということになるのだが)、人間の生き方やものの考え方というものはさまざまに変化しただろうとおもう。

 

 なにかの雑誌に、人間は男根というでっぱったところをきっかけにして「象徴」を持つようになるのかもしれない、と書かれていた。

 

 それは精神分析の難しい話でよくわからなかったけれど、なるほど人間のからだの名前が付いている部位は、たいてい出っ張ったところで、凹んでいる部位にはあまり固有の名前が付いていない。

 からだのサーフェイスの、凹んでいる部分を探してみる。「肘の裏」「膝の裏」「指と指のあいだ」「くるぶしの真下のやわらかい部分」など、たいていは「○○の△△」という表現がなされる。*1 これに対して、それ自体の固有の名前を持っている部位は、たいてい、出っ張った部分、硬い部分である。「ひじ」「ひざ」「かかと」「ゆび」「あご」のように。

 医学用語としてはもっと細かく名前が指定されているのだろう。しかしそれは、医学が身体を「硬い」「やわらかい」「目立つ」「凹んでいる」というイメージの濃淡を排して均等にマッピングしているからだ。

 

 やわらかいところ、隠れているところ、奥まっているところ、凹んでいるところには、あまり名前がついていない。ただ目立たず、けがをしないように、ひっそりとからだのサーフェイスを構成している。

 

 これに対して、名前がついている部位は、世界に向けて強くエンゲージしている部分でもある。触れ、語り、聞き、ぶつかり、ときにケガをする。わたしが身体の焦点を毎秒毎秒つくってゆくとき、それらのポイントはマッピングの基準点・標高点の役割を果たしている。

 

 「くちびる」や「おっぱい」や「おしり」は、やわらかいが、でっぱっていて、名前が付いている。やはり自他に対して目立ってゆく部分である。

 

 人間のからだのサーフェイスは、これらの〈名前を持つ、硬い・目立つ部分〉と〈名前を持たない、やわらかい・奥まった部分〉をつなぎあわせて、それらのグラデーションを描きながら構成されている。ところがわからないのは、おちんちんは、その硬軟の配置のなかにごく自然に編み込まれているのか、それとも何か別格の「出っ張り方」を帯びているのか、ということである。

 

 わからないまま文章を終えます。久しぶりに書きました。

*1:「土踏まず」は数少ない例外である。

東神戸病院内の「震災遺構」

 狂犬病の予防接種のために東神戸病院(神戸市東灘区)に行ったら、なつかしいものを見つけた。

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 あまりうまく写真を撮れていないけれど、これは新規外来者が問診用紙に記入する机です。

 んで、そこに置かれてた鉛筆。

 

 これ、1995年の震災のとき、インドから救援物資として贈られた鉛筆なのじゃないかと思います。

 全く同じものを自分も小学校で貰って使っていました。日本の鉛筆に比べて、芯も材木もあまり質が良くないのです。でも、なんだかありがたいなーと感じてた記憶があります。「インドのえんぴつ」「インドのえんぴつ」とみんな言っていたような。

 インドのひとにも気にしてもらっとーねんなーという感覚を子供心に持てたのは、きっと何か意味があった。だれだか存じ上げませんが、鉛筆送ってくれたインドのひと、ありがとう。

 

 さてその鉛筆がなぜ東神戸病院にあったのか。これが1995年当時のものか、確定はできない。しかし病院スタッフがインドからの観光旅行のお土産でこの鉛筆をわざわざ買って帰るということも考えにくい。

 

 東神戸病院にも当時この鉛筆が直接配布されていて、いまもその在庫を使っているのではないか。あるいは、看護師さんの子供さんが貰って使っていなかったのを持ってきたのか。

 1995年当時のものと断定はできないけれど、もしそうだったなら、このインドえんぴつは小さな「震災遺構」と呼んでいいかもしれないとおもった。

 

 

震災追悼のこころみを神戸新聞に掲載してもらった

www.kobe-np.co.jp

 

 去年の4月ころからこつこつ準備をしていた取り組みです。17日を前に、今日の朝刊で紹介していただきました。

 記事内容はとても的確で、じぶんの舌足らずな説明を、紙面ではすっきりと過不足なくまとめてくださっていると感じました。ほんとうに、ありがたいです。

 記事を読まれた方、とりわけ遺族の方がどのように感じられるか、どのような応答(もちろん批判的なものも含めて)があるのか、とても不安だというのが正直なところです。

 京阪神/国内ならばどこへでも説明・議論・ご意見聴取に伺うつもりですので、この取り組みについてご意見お持ちの方がいらっしゃいましたら、いつでもご連絡ください。また、この震災で亡くなった方のお名前の読み方や年齢、地域名(町単位まで)などの情報をお持ちの方もぜひご連絡ください。

窓枠

 実家で寝転んで窓から空を見ている。大阪や京都に比べると、神戸はわりと空が近い印象がある。雲の「きめ」がはっきりと見える。寒波の気流に引き込まれてゆく雲の動きに連動して、たまに部屋がふっと暗くなって、また明るくなる。東へ東へ移動してゆく。窓枠の上から現れて下へ消えてゆく。大阪朝高の窓枠集めはどうなったやろとぽつんと思う。

  光を浴びているだけで、何もしていない。じぶんは案外植物であったとおもった。ただ浴びている。明るさを受け取らされている。そうかじぶんも植物だと考えて、どこか誇らしく感じる。しかし体内に葉緑体を持っていない。光合成はしていない。本物の植物と同じ位置にはいないので、謙虚であらねばと考え直す。身の程を知った。ちょっと寝返りをする。水を吸う根っこも無い。眼が乾いたのか、眼球表面にじわっと涙の層が供給された。

 めを閉じる。依然としてまぶたを透かして光がやってくる。まぶたの意味ない。それは薄い。いちばん薄い部分は0.06mmだそうだ。だがサガミオリジナルはその1/3で、すごいなあと思う。謙虚であらねば。

「小さなもの」がパブリッシュされたよ

雑誌『臨床哲学』18号が公刊されました。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/clph/syuppan2_vol18.html

 

去年の早春から取り組んでいた「小さなもの」も載っています。

じぶんがこれまで書いたもののなかでいちばん大切なもの。とても嬉しい。

読んでもらえるとさらに嬉しいです(リンク先からPDFでそのまま読めます)。