しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

声が詰まる。

 なぜひとは、うまく話せないことがあるのだろう。あらゆる人類が、機械音声のように、ただ情報伝達としてのコードを口から発音するだけなら、どれだけ「楽」だろうとおもう。

 

 おもわず喉もとが硬く締め付けられて、ことばがうまく出ない。相手の相槌を待つことなく、だだーっと一気に話してしまう。目をうまく合わせることができず、声がくちびるを出たところでうろうろさまよってしまう。言葉の代わりに涙がじわっと出て、何も話せなくなる。手が震える。変な力みが耳の後ろから首にかけてこわばりを作る。声が裏返る。

 

 「こうすれば落ち着いて話せます」という指南書は世の中に溢れているけれど、そういった心理的テクニックのみで全てがコントロールできるわけではない。披露宴でも葬式でも就職面接でも、全て似たように朗々と落ち着いて言葉を垂れ流すことのできるひとがいたとしたら、それはきわめて不気味である。

 

 人間は言語を自在に操ると思われているけれど、じつのところ身体において「声」はとても弱い器官である。単語の羅列を情報としてすらすら叙述することはできず、身体のほうが実はしばしば主権を行使する。

 といっても、明確な単一の主権者が心身のどこかに存在するのではなく、単語、声、音、喉、舌、息、これらすべてが連立与党を構成していて、そいつらがときたま足並みを乱すということなのだろう。おおくの人は、それらの連立与党を最終的に統括する最高位者として、「意識」や「脳」や「わたし」が存在すると仮定しているけれど、現実にはそんな統括者は存在しないし、存在していたとしてもきわめて弱い権限しか持っていない。だからこそ、取り乱すとか、思わず声に詰まるといったことがひとには可能である。