しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

批判と悲しみと自衛

先週のことだったか、どなたかが描いた一枚の説明文付きイラストがSNS等で広く共有された。そのイラスト中に、「誰かを批判しても悲しんでも誰も守ってはくれません。近づいてくるのはコロナだけです。」という一文があった。それを首肯するブログ記事も出された。

 

じぶんはこの一文を読んだとき、(大雑把な言い方だが)世代の切れ目といったものを感じた。これも大雑把な考え方だが、ある程度若い年代のひとびとはこの一文に共感し、ある程度老いた年代のひとびとはこの一文に違和感を持つのではないか。切れ目の要点は「批判」の捉え方である。

 

はじめに断っておくと、この切り分け方においては、わたし自身の受け取り方は後者の「老いた年代」のものに属する。現在の破綻的な感染拡大は、この10年間、社会が健全な批判と健全な悲嘆を遠ざけてきたために起きている、とわたしは考えているからだ。しかし上記のイラストが広く共有されたということは、このわたしの考え方とは違う捉え方をしているひとも多いのだろう。

 

さてこの表現の興味深いところは、〈批判・悲嘆〉と、〈自衛・生存〉が両立しがたいものと理解されているところにある。自衛をせよ、という主張自体は全く正しい。政府や専門家が頼りにならない、という態度もわかる。しかし、批判や悲嘆は自衛と独立して行えるはずだろうとわたしは考えてしまう。むしろ健全な批判や悲嘆が無ければ、自衛すべき状況がさらに悪化するという捉え方を当然としてしまう。だがこのイラストの書き手はそうは考えていないようにおもえる。

 

この捉え方にはさらに3つの前提があるように思われる。

第一に、批判や悲嘆には一定のコストがかかるので、それに明け暮れていると自衛・生存にかけるべきコストが減ぜられてしまうという感覚である。

第ニに、体制批判に対する素朴にネガティブな感覚である。やや旧聞に属するが、芸能界出身の自民党の若い代議士が「批判無き政治」というスローガンを掲げて話題になったことがあった。彼女はおそらく「批判」という語に対する若い感受性をそのまま発揮したのだろう。先見の明があった、といえる。「批判」とは、社会や体制全体の回転を妨害し、世の中の秩序を消失させてしまう行為であるという捉え方があるようにおもう。

第三に、第一と第二のものと重なるが、批判は何ら生産的なものを相手や体制から引き出すことはなく、どれだけやってもエネルギーと時間の無駄という感覚である。