しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「地毛の色」が「本当の色」なのではない

大阪の府立高校の生徒が、もともと茶色い頭髪であったのを学校に黒染めを強要され、登校を著しく制限されたとして、府を相手取って提訴した。…というニュースを読んだ。

 授業への出席や修学旅行への参加も禁止されていたということで、学校の対応は常軌を逸しているとおもえる。

 

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 ただ、報道の文面などを見ていると「生まれつき茶髪」という点が強調されているのは気になる。生まれつきの黒髪を茶髪に染めている生徒を黒髪に「戻させる」のは指導の範囲内だが、生まれつき茶髪である人に黒髪を強いるのはヒドイ、という論調がある。

 この論調には、「生まれ持った髪の色(目の色や肌の色、その他の身体的特徴全て)こそが本質で、後から染めた色(化粧、整形、ムダ毛処理etc)はマガイモノだ」という論理が前提されている。生まれつきの色=加工されていない色=自然なもの=本質であり、染めた色=後から手を加えたもの=不自然なもの=ニセモノ、という捉え方がある。生まれつきの色こそが本質で優れており、後から手を加えた色はその本質を覆い隠すもの、という優劣関係が設定されている。

 これを生物学的本質主義という。何が本質かを考えるとき、生物としての特徴に素直に沿っている性質の方を本質的なものとみなす、という態度のこと。地毛の色が本質で、染めた色がニセモノであるとみなすのは、この生物学的本質主義に依拠している。この主義自体は文字通り「主義(イデオロギー)」であって、それ自体のさらなる根拠は求めようがない。つまり地毛の色こそが本質だという前提にはたいした根拠はない。

 

 わたしの地毛の色は「黒」である*1。これをたとえば「金髪」に染め直すこともできる。ところが、数週間すれば毛根から黒い髪が伸びてくる。そのまま伸びれば、いわゆる「プリン」状になるだろう。伸び切ったところで髪を切れば、再び「黒」に戻る。この黒髪と金髪のことをできるだけ素直に理解すれば、地毛の色とは「何も手を加えないでも毛根から生えてくる毛の色」であり、金髪は「自分で染料を使用して染めた、一時的に保たれている毛の色」である。何も手を加えないでも伸びてくる髪の色が「黒」であるのは、わたしの体がそのようになっているから。だが、素直な観察はここでほぼ完了する。それ以上の「本質」を毛根や毛染め剤から読み取ることはできない。黒と金のいずれかを「本質」と断定する根拠は無い。繰り返しになるけれど、「生まれつきの色こそが本当の色なのだ」という主張は、主張にすぎない。

 

 もう少し掘り下げると、たとえばハイデガーが言っていることの受け売りなのだけれど、ある時代から人間は「時間の経過にかかわらず不変のままであるものこそが本質である」という前提を基本にしてものを考えているが、これもやはり本質についてのひとつの主義にすぎない。この恒常性を本質と同一視する思想と、遺伝とDNAの発見が要素還元主義とうまく合致してしまったこと、これら2つが合体して生物学的本質主義がわたしたちの考え方のベースに入り込んでしまったのだとおもう。

 

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 だから、この事件についても、「生まれつきの色が茶色なのに」という捉え方だけで進むと、かなり窮屈なことになるのではないかとおもう。重要なのは、この生徒さんが生まれつきの茶色を大切にしている、ということだ。そのひとがそのひとの身体や生活の在り方について自分で大切にしているものこそが重要で、尊重されるべきだ。その根拠を問う必要は無い。「生まれつきの色だから大切にしたい」もアリだし、「生まれつきの色こそがどうしてもイヤなので染める」もアリ。言語で説明できなくても、「なんとなくこの色がいい」で十分なはずだ。選択されたその色が、生まれつきの色であるか、人為的に染めた結果であるかは、さして重要ではない。

 この点を生物学的本質主義に立って誤解してしまうと、「多様性」についても誤解してしまうことになる。多様性とは生物学的なカタログ的な「多種性」ではなくて、各自の選択の尊重の結果としての「多様性」であるべきであるとおもう。ちょっと優等生的な表現だけれど。上記事件の学校はこの多種性と多様性の両方を二重に踏みにじっている点で罪深い。一方、「生まれつきの色」を強調しすぎる論調は、結果として多様性の考えを狭めることになっている。

 

 

 

*1:ほんとうは黒にもいろいろある。自分の場合は「乾いた黒」というかんじ。多少白髪も混じっている。