しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「世界一のツリー」騒動の続報が出てしまった

 

昨年12月、神戸のメリケンパークで「世界一のクリスマスツリー」なるイベントが開催された。わたしはこのイベントが阪神大震災の鎮魂を謳うものであることが、端的に意味がわからないと思った。やめてほしいと思った。そのことは書いた。

 

 

このとき書いたことをいまいちど要約すると、

・「クリスマス」と「震災」は基本的に無関係

・「樹齢150年」と「神戸港150周年」を重ねるのはわかるが、これらは震災と無関係

・「議論を巻き起こす」ための具体的な手続きを用意しておらず、投げっぱなし

・「復興」や「再生」や「鎮魂」といった言葉の意味を深く考えているのが疑問

といった疑問があった。つまるところ、まずイベントありきで、そこに神戸港150年や震災鎮魂といったキーワードを後から貼り付けただけではないかという疑いを持った。疑いというより、不快感であり、怒りだった。

 

ともあれ、この事件は物理的な事故は起こさず終わった。観光客は何万人も来たということで、それはそれで成功したということなのだろう。この主催者が別の地域で似たことを再度やらかさなければいいがとだけ考えて、あとは可能な限り記憶から押しやった。

 

ところが実は終わっていなかった。ということを上記神戸新聞の記事で知った。

田中康夫氏が昨年12月28日にイベントを批判する記事を週刊誌に書き、Youtubeで批判した。その後主催者の西畠氏側が田中氏の記事と動画に対して法的手続きを取っていた。

 

 

この田中氏のサイトがすごく読みにくいのだけれど整理すると*1

・12月12日発売の『サンデー毎日』に田中氏が「ツリー」イベントを批判する記事を掲載

・1月18日、毎日新聞が西畠氏からの「通知書」の請求には応じられないとする「回答書」を送付。

・2月1日、西畠氏側代理人が田中氏に通知書を送付。慰謝料金100万円の支払いと動画の削除を要求。

・2月15日、田中氏が回答書を送付。

・3月20日、西畠氏代理人が慰謝料1550万円を求めて神戸地裁伊丹支部に訴状提出。

・5月7日、伊丹支部から神戸地裁に事件が回付される

・7月11日に第一回口頭弁論

という流れ。らしい。知らなかった。

 

 以下、備忘録として自分の感想を2点、書いておく。

 もうやめてほしい、というのがもっとも大きな気持ち。本人サイトのページを見るかぎり、田中氏の文章表現は品が欠けている。西畠氏の訴訟は自分の事業を守るために必要なのかもしれないけれど、イベントに対して市内から多くの批判があったということを自身にフィードバックしていないようにおもえる。神戸という街や、その市民や、木や、死者に対して、この訴訟がどんな意味を持つのだろうか。それを説明することばを探し直さない限り、自分のやっていたことの本質は一種の「興行」で、開催地域に根付いたものではないとみなされてしまうのではないか。

 もうひとつは、そろそろ「ルミナリエ」を本気で考え直さなければならないのではないか、ということ。ツリーのイベントを「呼び込んで」しまったのは、ルミナリエという土台がすでにあったからだ。ルミナリエは当初復興と追悼のシンボルとして開催された。わたし自身、一年目のルミナリエを歩いた。あのときのことは、震災の揺れと同じく、なんともことばに言い表すことができない。本当に大切な体験だったし、いまでもその思いは変わらない。しかし二年目から何かが変わったように感じた。三年目以降は行かなくなった。

 ルミナリエに対する感情はかなりひとそれぞれなのではないかとおもう。最初の年から忌避するひともいただろうし、毎年変わらず参加してきたひともいるかもしれない。だからわたしの感想を一般化することは避けたいのだけれど、しかし現在は圧倒的にクリスマスイベントという印象を持たざるを得ない。あえて下品な言い方をするけれど、追悼というより、ラブホ業界にとって重要だろうなという感想がある。

 この変化自体はかならずしも悪いものではないかもしれない。平凡で騒々しいイベントをするだけの街になってしまったということは、そのような街に復興した証だ、とも言える。(そしてまた、光の下でわちゃわちゃと戯れる若者たちのなかに、「そのように生きていたかもしれない死者」たちをわたしは見出すことがある。これもうまく表現できないのだけれど、かれらの「代わりに」遊んでくれているような気がすることがある。なんというか、ルミナリエに来る観光客を批判する気は全くなくて、来るならぜひ無邪気に楽しんで欲しいともおもう。亡くなったひとたちもそれを拒絶はすまい。)

 

 しかしながら、変化の「けじめ」をそろそろつける必要がある。本当は追悼の意味合いがどんどん薄れているのに、表向きは追悼ということで商業イベントを続けている。その「羊頭狗肉」っぽさもまた、被災地の内側のひとびとはある程度なやみ、ときどき文句を言いつつ、受け入れてきた。ところが「クリスマスツリー」のイベントはそうした逡巡すらもはやなかった。もっと単純で醜悪なものだとわたしは感じた。それを呼び込んでしまったのは、「ルミナリエ」をもう止めてはどうかという議論を真剣に始めていなかったためではないか。

 だから西畠氏への批判はもう切り上げて(おそらく誰が何を言っても届かないだろう)、あらためて市民自身が、なぜ「ツリー」イベントを引き込んでしまったのかを話し合うことが必要なのだとおもう。(そのための手順を具体的に考えてみたこともあるのだけれど、ひとりでは身が足りない)

 

 クリスマスにはまだだいぶ遠い季節にこのようなことを考えました。

 

 

*1:震災の追悼が自分の研究課題のひとつなので、とりあえず追いかけておかざるをえない