しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

稲田防衛大臣が「誤解だ」しか言えなかった理由

 稲田防衛大臣が都議選の応援演説で失言し、その謝罪/釈明会見で「誤解」という釈明に終始した(この表現を30回以上使っていた)というニュースがあった。

 

 

 何か失言をして、「誤解です」というのは釈明としてかなり筋が悪い。大臣としては、ここで間違っていたとあっさり認めてしまうと選択肢はもう大臣辞任しか残っていないので、ぎりぎりの抵抗として「誤解です」と言い続けるほかない。それはわかるけれど、しかし、「誤解です」をただ連呼するのは、あまりに芸が無いというか、逃げ方・ごまかし方の奥行きに欠けるなぁとおもう。

 

 なぜ、彼女は「誤解」という表現しか使えなかったのか。いろいろ事情や要因はあるのだろうけれど、わたしは、この「誤解だ」の連呼に、現在の政権の考え方がとてもはっきり現れていると感じる。

 

 現政権のひとびとの言動の基本には、「私は正しいのだが、何かが私の邪魔をしている」という考え方がある。「何か」にはいろいろなものが代入されうるけれど、彼らにとってもっとも主要なものはマスコミである。

 かれらは、自分たちが何か正しいものごと=〈真実〉を心のなかに所有しており、それが有権者にうまく受け渡されさえすれば、自然と政権運営がうまくゆくと考えている。ところが真実を受け渡そうとするとき、途中でだれかがそれを奪い取り、塗り替え、歪めてしまう。そのために自分たちの真実が適切に伝わっていない。このような考え方をしているように思われる。

 わたしはこの考え方を「真実のキャッチボール・モデル」と呼んでいる。投手(政治家)は自分の持つ真実や信念(ボール)をキャッチャー(有権者)に投げようとするが、途中で邪魔者がボールを奪い、それを別のボールにすり替えてしまう。そのためにうまくいかないのだ、というモデルである。

 ここで自民党政権のひとびとが「邪魔者」として真っ先に想定するのがもちろん左派系の大手マスコミである。また、幼いキャッチャーの耳元で「あんな奴らのボール、受け取っちゃいけません」とひそひそ声で教え込もうとする悪いコーチが日教組である。

 

 マスコミがさまざまな歪曲や切り貼りや「印象操作」を行っているというのはそれなりに現実の出来事であろうし、政治の責任ある立場にいる人々にとって、自分の言動が適切に伝達されないことの苛立ちは想像以上のものなのだろう。こうした苛立ちは別に今の自民党政権に限定されたことではなく、民主党政権菅首相(当時)や各大臣の仕事やメッセージを直接伝えるためのYoutubeチャンネルを開設していた。

 したがって、政治家のマスコミに対する苛立ちや不信は、理解不能なものではない。とはいえ、「おまえらがうまく伝えてくれないから、うまくいかないのだ」という不満に固執するのは独りよがりでもある。

 

 現在の自民党政権のとても巧妙なところは、この「真実のキャッチボール・モデル」を、ある程度まで有権者(あるいは政権支持者)と共有することに成功したことである。現政権のひとびとは、ひたすらマスコミを悪者に仕立て上げ、「うまく伝わっていないのです」とだけ言い続けてきた。その結果、おそらくそれなりに多数の有権者が、自分たちは誤ったボールを手渡されていると信じるようになった(この理解自体は決して間違っていない)。「大手メディアではあのように報道されていたが、実は…」というタイプの記事が、バイラルメディアのお家芸というか、一種の様式美のようになった。

 ところで、ここでさらに興味深いことが生じる。政権のひとびとは、マスコミがボールをすり替えていると有権者に信じさせるだけでなく、さらに一段進んで「自分たちの手元には、邪魔者に歪曲されていない、ピュアな真実・真理・正義が保管されている」という理念をある程度共有させることに成功した。

 これは非常に巧妙・狡猾な手続きである。かれらは「あいつらが邪魔をしている、あいつらは嘘を言っている」とだけ言う。しかし自分が持っているようにほのめかしている、本当の真実なるものを具体的に開示することは無い。つまりボールを実際には投げないで、さらにはボールを実際には持っていないらしいのに、「ボールが奪われるから、投げないのだ」と言うのである。

 善良なキャッチャーがそれを信じるのは、たしかにマスコミの側に前科が多すぎるからでもある。ただし単純なマスコミ叩きだけでは、この「ボールは持っているのですが投げられないのです・モデル」は成立しない。これを補強するのが、「日教組」や「印象操作」といった、〈ネトウヨニヤニヤ系キーワード〉の活用である。

 


 この「日教組!」というヤジを首相閣下は誰に対して言っているのか。かれはおそらく、委員会の質問者や参席議員に向けて言っているのではなく、マスコミの向こう側の固定ファンにウインクを送っている。このとき「日教組!」と言われた議員は日教組とは無関係であるし、仮に日教組に属していたら何だというのだろう。実際、いまの日教組に往時の力など無いことは、若年層の政権支持率の高さを見れば一目瞭然である。つまり日教組云々というのはもはや相当のファンタジーであるのだけれど、このファンタジーをまだ共有するひとびと、つまり政権のコアなファンにとっては、なにかニヤっとしてしまうのだろう。そのようなひとびとに向けては単語で十分なのだし、むしろ単語でなければならない。

 現政権と首相閣下は、自分たちのコアな支持層と、浮遊層へのメッセージの送り方をきっちりと区別している。「日教組」や「印象操作」という単語の繰り返しは、もっぱらコアな支持層を受け手としたものだろう。真実や真理のボールは直接見せない・投げないかわりに、「ボールはちゃんと持っていますよ」という暗示をこれらの単語に託して伝えるわけである。そうして成立したニヤニヤ的紐帯が、政権支持率の岩盤となっている。

 

 話を稲田防衛大臣の会見に戻そう。ここまで述べたところから、彼女が「誤解だ」としか言えなかった理由がある程度明らかになったようにおもう。キャッチボール・モデルと、それを逆手にとった戦術に依存してきた彼らは、ボールをうまく取り次いでもらっていない(=誤解)という言い回し以外の表現方法を全く知らないのである。稲田防衛大臣自身、「誤解だ」はかなり苦しい弁明だと理解しているだろうけれど、その一方でアタマの半分ぐらいは「本当に誤解にすぎないのに」と考えてもいるのかもしれない。

 しかし彼女にとって苦しいことに、今回の失言はもはや、ボールを隠しているようにほのめかすというレベルで乗り切れるものではない。実のところ、謝罪や釈明の会見は、正規の「キャッチボール」がきわめて的確に遂行される、数少ない舞台である。マスコミは一言一句それを伝えてくれるし、「失言だった、私が間違っていた」というボールがまさに目の前にあり、それは誰の目にも隠されていない。そのボールを投げたなら、まさに有権者の心にまっすぐストライクする。その結果、ピッチャーはそれを最後の投球として降板しなくてはならないが、キャッチャーの側から再度ボールが返ってくる可能性も無くはない。その可能性を信じて投げるほかないのだけれど、防衛大臣は「あなた方がキャッチボールを邪魔する」としか言わない。

 

 実際のところ、真実や真理や正義とは、じぶん一人の心の中で確固として完結するものではないようにおもう。強いて言えば、心の中に存在するのは、それなりの信念や自分なりの意見といったレベルにすぎない。おそらく真実や真理は、語る者と聴く者のさまざまなやりとり全体のなかでそのつど凝固し、解体しているものである。(国政の場合、そこにマスコミやネットという特異な次元が関わってくるので、たしかに単純ではないけれど、基本は同じことだとおもう。)

 けれども現政権のひとびとはこの種の真理モデルには依拠せず、代わりに上述のキャッチボール・モデルに頼ってきた。これによって高い支持率を維持し、(彼らと支持者にとって)正しいと信じる政策を実行してきた。目的達成のためには悪い手段ではなかったけれど、稲田氏だけでなく政権全体で、ボールを持っているとほのめかすことがだんだんと無理になってきたようにも思える。