以前から気になっていたことなのだけれど、世の中には「謝るけど、謝ってない」という態度をとるひとが一定割合いる。
お詫び
この度、去る6月15日に行われた衆議院厚生労働委員会において、参考人のご意見の際、私が「いい加減にしろ」といったヤジを飛ばしたという報道がありました。
まずは参考人の方はもとより、ご関係の皆様に不快な思いを与えたとすれば、心からの反省と共に深くお詫び申し上げる次第でございます。
もちろん、参考人のご発言を妨害するような意図は全くなく、喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想いで呟いたものです。
とはいえ、今後、十分に注意して参りたいと存じます。
この度は誠に申し訳ありませんでした。
これは自民党公認 衆議院議員 穴見陽一 オフィシャル ホームページのトップページに掲載されている謝罪文。
見た目は「お詫び」なのだけれど、あちこちに「ほんとうは謝りたくないかんじ」をかもしだしている。わたしはこれを「謝罪の値切り」と呼んでいる。誠心誠意の、「満額」の謝罪をするべきところなのに、文面のあちこちで「値切り」をかましてくる態度のこと。
この「お詫び」の例でいえば、「不快な思いを与えたとすれば」「妨害するような意図はまったくなく」「とはいえ」というような、留保を挟む表現のことだ。「報道がありました」とだけ書いて、「それは事実です」と書き添えないことも、問題発生の責任を報道に転嫁させるような印象を与えてしまう。「ヤジ」を「呟いた」に変換するのも姑息だ。
この「謝罪を値切ろうとするひとびと」は、広い意味では「謝ったら死ぬ病気のひとびと」カテゴリに含まれる。ただし値切り系のひとびとは謝らないのではない。たしかに謝る。謝るのだけれど、「でも、ほんとうはそこまで俺は悪くない」と余計なひとことを付け加えてしまう。いったん100万円の慰謝料を差し出しながら、「やっぱ80万円にさせて」と値引きするようなもので、周囲にひとしく不快感を与える。
この態度は不可解だ。危機管理として悪手このうえないからだ。「炎上」のリスクが高まり、謝罪相手の態度を硬化させ、問題が長引く。自分の非を全面的に認めることが、自分の身を守る最良にして唯一の方法である状況に置かれているのに、それでも謝らない。謝ることができない。わたしはそれがわからない。これは善悪の問題ではなく、合理性の問題である。明日の保身よりも今日のプライドを優先させてしまうというのは、なんなのだろう。
別の例を挙げてみる。
辞職後に高橋都彦氏が報道陣に配布した文書(全文)
本日、平成30年6月4日、狛江市議会の同意を得て、狛江市長を辞職いたしました。
今回、勇気ある女性職員から実名でのハラスメントの抗議文を受け取り、市政をこれ以上混乱させてはいけないという思いから辞職を決意した次第です。
相手方がハラスメントと受け止められているのであれば、その行為はハラスメントとなります。これまで私の言動で、ハラスメントと受け止められた職員に対しまして、この場をお借りいたしまして謝罪いたします。
また、このような事態となり、市政を混乱させてしまいましたことに対しまして、市民の皆様にもお詫(わ)びいたします。
誠に申し訳ございませんでした。
狛江市長としての6年間、狛江のまちを良くしたいという思いで、業務には全身全霊で取り組んでまいりました。その過程で、市民の皆様をはじめ、職員の皆様、その他多くの方々に大変お世話になりましたことに改めて感謝申し上げます。
今後、職員の皆様には、新しい市長が就任されるまでの間、副市長を中心に職務に励んでいただきますようお願い申し上げ、私からの最後のコメントとさせていただきます。
セクハラ疑惑の高橋・狛江市長が辞職 市議会が同意:朝日新聞デジタルより
わたしがもっとも引っかかったのは「勇気ある女性職員」という表現。たしかにこの女性職員たちは勇気がある。しかしそれは、彼女らの同僚や、同じ立場を共有し連帯しうる女性たちや、その他わたしを含む外野のひとびとが言う評価や称賛であって、告発された当人が「わたしを告発したあなた方は勇気がある」と言うのはきわめて奇妙だ。
辞職の理由も「市政をこれ以上混乱させてはいけないという思い」からであり、「自分が悪いことをしたから」ではない。つまり、「市政の混乱」という、自分よりもむしろ女性たちが引き起こした事態(とおそらくかれは考えている)を収拾するために、あえて自分が犠牲にならざるをえない、という方向性を取っている。セクシュアル・ハラスメントで告発されたのが、いつのまにか彼の世界では「なんとなく良いことをした」というイメージに変換されている。「これが男の責任の取り方なのだ」とロマンチックな気分になっているのではないか。謝罪を値切りして、その差額を自分のナルシシズムに与えている。そのナルシシズムがそもそも事件の発生源であるのに。
いずれの表現でも、悪を為したと名指しされたとき、それを否定して抗弁するのではなく、かといって全面的に謝罪するのでもない。いちおう謝罪の見た目は繕いつつ、告発者を「勇気ある」と評価する父親的位置にするりと逃げている。
じぶんのプライドはそれで守られるかもしれない。しかしダメージはさらに拡大する。すると、さらに自分のプライドを守るための防御策を講じなければならなくなる。
これらの「値切り系」のひとたちが共通して用いるロジックがある。それは「本心は良いものだったのだけれど、伝わり方(現れ方、表現の仕方、受け止められ方、報道での取り上げられ方)が悪かった」というものだ。
穴見議員の場合は「喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想い」であり、狛江元市長は「心に一点の曇りもなかった」。証言者の発言を「妨害する意図」は全く無かったのだけれど、喫煙者への差別を差し止めるために、つい「呟いた」。ところがそのつぶやきが、最初の善良な意思に反して、相手に不快感を与え、マスコミに必要以上に大きく取り上げられてしまった。したがって謝罪する、という論理構成である。この論法が許されるなら、体罰や家庭内暴力や児童虐待も許されてしまうだろう。
心の中に最初もっていたオリジナルの気持ちは誠実で善良だったけれど、それを媒介するものが悪かったために、問題が生じてしまった…というモデルをかれらは使う。「媒介」するのは、自分の口下手さ、相手の思考回路、マスコミなど、じぶんの当初の本心とは別の主体である。このような媒介を引き合いに出すことで、責任を分散させようとする。
しかしこの「本心」というものが、事件のあとになって見いだされたものであることをかれらは考えようとしない。たしかにそういった善良な気持ちも存在したのだろう。しかしそれは、人間の可変的な存在のなかの、たくさんの心象のごく一部にすぎない。ところが謝罪文を書く段階になって、それらの多くの心象からひとつが選び出され、それこそが事件中に一貫して自分の心を占めていた真実の気持ちであるという物語がつくられる。しかしその物語のなかに、謝罪の相手が入り込む余地がない。あくまで自分のための、自分がそこに閉じこもるための物語である。