しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

コロナがこわい

コロナがこわい。というか、どう捉えたものか、まよっている。

 

自分がコロナで死ぬのがこわいのだろうか。それはもちろん避けたい。避けたいが、死ぬときは死んでしまうのだろう。むしろ後遺症のほうがこわい。呼吸器の機能がひどく落ちたり、不可解な強い疲労感に冒されたりという事例を読んだ。後遺症を抱えて生きることを想像してみる。自分がいま抱えている多くのものを手放すことになるだろう。心身の苦しみよりも、いま自分が持っているものを失うということの不安のほうが想像しやすい。

 

しかし恐怖や不安は、この不可解さの核心ではない。

どれだけ恐怖や不安を覚え、また想像をしても、さしあたり今日ここまでのところは自分がコロナに感染していない、という事実がある。このことがものすごく不可解だ。

もちろん手指の消毒は続けているし、マスクも付けている。変な人混みに入ることも、長時間の会食や飲み会に興じることもない。けれども、こうした「努力」はある程度の蓋然性しか保障しないだろう。感染してしまうときは、こうした努力をウィルスがするっとすり抜けて来るのだろう。

 

多くのひとが感染し、とりたてて悪化しないひともいれば、命を落とすひともいれば、重たい後遺症を負わされるひともいる。感染したひとのなかには、なるほど「自業自得」のような原因があるひとも含まれるかもしれない。事態を甘く見て、消毒やマスクを徹底しなかったのかもしれない。

しかしそうしたわかりやすい事例はおそらく少数例ではないかとおもう。おそらく大多数は「それなりに徹底していたつもりだったのに」「そう甘く見ていたつもりではなかったのに」感染した、というひとびとではなかろうか。

 

そういったひとびとと自分のあいだに決定的な差は無い。そこに異様な不可解を感じる。そしてこの不可解がわたしの明日の健康をなんら保障してくれないということに、さらなる理不尽と不可解を感じる。