しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

Tochka Nisshi

じぶんが思っている以上に、こんかいの感染症拡大は世のひとびとを分断しているのだろう。

すぐに「リモートワーク」に切り替えられる職場のひとと、仕事の性質上それが不可能なひと。

飲食や遊行や旅行を「自粛」で我慢しなきゃと感じるひとと、それらのサービスを提供することを生業とするために「自粛」が直接に家計への打撃となるひと。

ある程度安定した企業や公的機関の正社員・正職員と、人件費の「調整弁」としてまず切られるバイトや臨時職員。

感染が生命の危機に直結すると切実に感じる高齢者と、まあ大丈夫でしょと思うことのできる若者。

DVや差別の潜在的・顕在的な被害者と加害者。

10万円が今月入ってきても来月入ってきてもあまり変わらないと感じるひとと、いまこの場で貰えないのなら死んでやると包丁を役所で振り回すほど追い詰められるひと。

情報を手際よく収集・トリアージしてバランス良く情勢を理解できるひとと、テレビのワイドショーや少数の「まとめサイト」が唯一の情報源であるようなひと。

 

一般の自然災害の場合もひとびとは分断される。被災者と名指されるひとびと/そうでないひとびと、住まいを失ったひと/そうでなかったひと、というように。ただ、ある程度まではそれは見えやすい。本当は見えない分断がたくさんあるのだけれど、さしあたり地震や津波の被害そのものは目に見える。被災体験や境遇にさまざまな違いがあることは当然とおもわれている。

ところが今回の災禍は、社会全体が平均的に(しかし本当はいろいろなムラを伴って)萎まされているために、こうした違いがくっきりと実感されづらいのではないかとおもう。同じ「自粛」や「非常事態宣言」や「テレワーク」でも、ひとりひとりに作用する実効的な部分がまったく異なってしまうのに、その異なりがいまひとつわかりづらい。

 

とくに職種で違いが出やすいというところが独特であるように思える。一般の自然災害でもそうした性質は含まれうるが、どちらかというと職種や業界の違いをいったんリセットするように作用する。一つの避難所で魚屋さんも銀行員も銀細工職人もバーテンダーもみな肩を寄せ合って怯える、という情景があらわれる。災害以前の役割や社会構造がいったんシャッフルされて、とりあえず生身のわたしとあなたがうろたえるしかない。そこに、いわゆる災害ユートピアの出現であるとか、またボランティアの活躍といったことの素地がある。(もちろんそう単純な話ではない。生活再建のフェーズに入ると、たとえば高給取りの銀行員は自分の資力で自宅を建て直すが、仕事道具を失った老いた銀細工職人は仮設住宅からなかなか出られない、といった現実があらわれる)

今回の災厄では、そうしたリセットやシャッフルの作用はほとんどない。既存の社会的な役割配置や、収入の格差や、社会構造もろもろが維持されたまま、負荷が平均的にかつムラを伴って全体を覆っている。そのためかえって分断がみえづらい。リセットが生じるほど巨大なハザードでないことは良いことに違いないのだが。

 

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読んだほん。

津波の後の第一講

津波の後の第一講

  • 発売日: 2012/02/29
  • メディア: 単行本
 
放射能問題に立ち向かう哲学 (筑摩選書)

放射能問題に立ち向かう哲学 (筑摩選書)

 

 

 

Tochka Nisshi

安物のウェブカメラが届く。マイクも内蔵されている。常用しているデスクトップPCにつなげる。これでZoom会議のたびにMacbookを開かなくて済む。だが試してみると、妙に雑音が交じるらしい。カメラ機能そのものは必要十分なのだけれど、内蔵マイクはやはり安さがモロに出ているのだろう。

こうして、ひとつずつ快適になってゆく。それはどういうことだろう。面倒がなくなるということ、動作が減ること、なめらかになること、「集中できる環境」が得られること。そうして、どうなるのだろう?

 

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きのう読んだほん。

 

Tochka Nisshi

先輩研究員が出した避難所感染拡大レポートが好評で、読売新聞、朝日新聞、NHKに取り上げられている。よかった。

 

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起きる。窓を開ける。ゴミをまとめる。洗面所の排水溝を掃除する。ゴミを出す。ポストに郵便が届いている。李静和先生からのご献本だった。

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手に持っているだけで、すごくつやつやしていて、きれいで、そして手にウニを載せているように、ひりひりじくじくする。読むことも本棚に収めることもできずに、ぼうっとしている。

Tochka Nisshi

 片付ける場所がそろそろ無くなってきた。

 トーチカ生活が始まっておよそ1ヶ月になる。出勤しない、週に2,3度の食料品買い物の他はできるだけ部屋から出ないということで、自宅を少しでも快適にしようという方向に体が差し向けられる。1年前に引っ越してちょくちょく片付けはしていたのだが(前の住人の家具がかなり残っていたので、その処分に時間がかかった)、この機会にということで部屋の片付けをむしろ楽しんで進めた。

 ところが片付け始めると片付いてしまうもので(当たり前である)、だんだんと未片付けの処女地が狭まってきた。部屋とは不思議なもので、片付いていない状態では雪だるま式にモノが散らかってゆくが、ある閾値を超えて片付けが進むと、多少のモノの散らかりでは本格的な散らかり状態には陥らなくなる。表面的にはモノが散らばっていても、すぐに整頓状態に戻ってしまう。いわゆるゴミ屋敷はこの反対の状態で、多少片付けてもどうにもならずにひたすら散らかってしまうのだろう。現在、我が家はゴミ屋敷と正反対の、どうしてもモノが片付いてしまう奇妙な状態にある。それは確かに心地よいのだけれど、いったん完成形に近づくとどうしてもstaticになってしまい、ただその空間を見て満足するしかなくなる。minecraftやrimworldのように、いっちょ最初からワールドを創りなおすかーということもできない。

 

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 きょう読み終わったほん。

 

Tochka Nisshi

 まちを出歩くひとの数が少しずつ増えている気がする。そりゃそうなるよなぁとおもう。

 以下は印象論に過ぎないけれど、この国では有権者も政治リーダーも科学的な対応ということを一般的に好まないのではなかろうか。ここで言う科学的な対応とは、「AをしたらBが起きる」「CをしなかったらDは起きない」という論理的な関係を徹底させることである。今回の感染症対応に関して言えば、「社会的接触を減らせば、感染拡大を防げる」ということになる。

 日本でもたしかに対人接触は減った。しかし「ある程度」にとどまった。科学的であるためには、「Aであれば、Bとなる」の「A」に当たる部分をできるだけ徹底して、純粋にする必要がある。すなわち可能な限り徹底的に・厳密に・厳格に外出を制限することが求められた。ところが社会全体の動向を見ると、「まあまあそこそこ減らす」というところで妥協した。だから、「Aであれば、Bとなる」という論理関係が曖昧になって、「それなりに社会的接触が減ったから、どうやらそれなりに感染拡大が収まっているっぽい」というぼんやりとした把握にとどまった。結局、何が成功で何が失敗だったのか、明晰な知識を社会に沈殿させることには失敗した。

 

 もちろん、封鎖は多くのひとの生業を奪うので、厳密であればあるほど良いということにはならない。たとえば接触を99%断つのではなく、75%減らすことが最良の塩梅なのかもしれない。だがその場合も同様で、「社会的接触を75%にしつつ経済活動も最低限維持することで、最終的な利得(感染拡大抑止と経済温存)が最大になる」という仮説を確認するために厳密な条件の統制を行ったのではなかった。「なんとなく」で75%ぐらいになり、同じく「なんとなく」最終的な利得が最大化されるのかもしれない、そのうち75%が65%になり50%になるんだろうね、という雰囲気が広がる。やはり同じことで、条件も結果も曖昧にしてしまっているので、何が成功で何が失敗だったのか、その知識をわたしたちは得ていない。

 別の言い方をすれば、現在の政治は賭けを避けている。理念上は何度でも条件を揃えて同じ実験を繰り返すことができ、それが人間の社会生活に影響を及ぼさない通常科学と異なり、「都市封鎖をする」という条件統制は一つの社会的な賭けである。賭け金は市民の生命である。都市封鎖をすることで感染拡大が止まるという確証は無い。結果を事前に知ることはできないので、どのような選択をするにしても賭けになる。だが賭けをせざるをえないし、賭ける以上は全額を賭けなければならない。それが裏目に出る可能性もある。スウェーデンは賭けに負けている。だがそれによって、少なくとも、何に失敗したのかが明確に理解されている。他方で日本では何に賭けているのかがわからない。全ての馬に等額ずつ賭け金を置いているようにも見える。ブラジルは「何もしない」という馬に賭けているが、日本はそれとも異なる。

 

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きょうはすごく幸福なことがあり、すごく自分に失望することがあった。

 

 

 

続刊を待っているコミック

個人的に続刊を待っているコミックをならべてみる。

 

鉄板 

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

  • 作者:九井 諒子
  • 発売日: 2019/09/14
  • メディア: コミック
 

 もはや「ファンタジー+食」というジャンルすら拓いてしまった感がある。

 

宝石の国(10) (アフタヌーンKC)

宝石の国(10) (アフタヌーンKC)

  • 作者:市川 春子
  • 発売日: 2019/08/23
  • メディア: コミック
 

こちらも鉄板の一冊として。ぱりんと砕ける鉱石たちのドラマ。単純な「せつない」系の物語になってしまわないのは、作中の独特の時間感覚によるものが大きいのだろう。じぶんは金剛先生が好きです。

 

コメディ

ヒナまつり 18 (ハルタコミックス)

ヒナまつり 18 (ハルタコミックス)

  • 作者:大武 政夫
  • 発売日: 2020/04/15
  • メディア: コミック
 

1巻からずっと一冊ずつ買っている。単純におもしろい。「空気の読めなさ」をギャグの基本にしていたのだけれど、そこに主人公の成長物語を微妙にブレンドして、「それなりに読めるようになってゆく」過程の物語としても成立している。

先月新刊が出たばかりだが、次巻で完結とのこと。

 

 SF・歴史

いちげき (5) (SPコミックス)

いちげき (5) (SPコミックス)

 

 著者の前作『女子攻兵』はこれ以上ないだろうというぐらいの完結だった。次もSFだろうと待っていたら、いきなり幕末モノが来た。

 

人形の国(5) (シリウスKC)

人形の国(5) (シリウスKC)

  • 作者:弐瓶 勉
  • 発売日: 2019/11/08
  • メディア: コミック
 

「宮崎駿ふうの画風で書き始めるが、話が進むにつれて掘骨砕三に寄ってゆく」系の著者の新シリーズ。著者の前作『シドニアの騎士』はこれ以下はないだろうというぐらいの雑な終わり方だった。次もSFだろうと待っていたら、全く期待を裏切らない正統派弐瓶ワールドで嬉しい。

 

いやもう、むちゃくちゃ好き。むかし『プリニウス書簡集』 (講談社学術文庫)を読んだとき、「叔父のプリニウスは火山の調査に行ったとき巻き込まれて死んでしまい~」という下りがあってなんじゃそりゃとおもった記憶があるのだが、その死んでしまった叔父の方(大プリニウス。書簡集の書き手は小プリニウス)を主人公とした作品。

同じ著者の『ジョブズ』も面白かったのだが、本作のネロとジョブズが重なって見えるのが面白い。

 

ツイッターアーだけ追っていると案外読み落としているストーリーの重要要素が多く、復習としても意味がある。

 

 

 本作については当ブログで紹介記事を書いた。

 

 

続刊を待っているような待っていないような系列

ゴールデンカムイ 20 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
 

面白いのは間違いないのだけれど、アイヌの描き方が「3F」のように感じてしまい、なんとなく読むのをやめている。

 

BEASTARS 18 (少年チャンピオン・コミックス)

BEASTARS 18 (少年チャンピオン・コミックス)

  • 作者:板垣巴留
  • 発売日: 2020/04/08
  • メディア: Kindle版
 
あそびあそばせ 8 (ヤングアニマルコミックス)

あそびあそばせ 8 (ヤングアニマルコミックス)

  • 作者:涼川りん
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: コミック
 
衛府の七忍 8 (チャンピオンREDコミックス)

衛府の七忍 8 (チャンピオンREDコミックス)

  • 作者:山口貴由
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: Kindle版
 
メイドインアビス(8) (バンブーコミックス)

メイドインアビス(8) (バンブーコミックス)

 
ハクメイとミコチ 5巻 (HARTA COMIX)

ハクメイとミコチ 5巻 (HARTA COMIX)

  • 作者:樫木 祐人
  • 発売日: 2017/01/14
  • メディア: Kindle版
 

 『メイドインアビス』と『ハクメイとミコチ』を並べたときの、あー同系列の作品でしょ感がすごいが、むしろ『アビス』は『衛府の七忍』の方がまだ近い。近くない?

 

待つという概念の超越

HUNTER×HUNTER 36 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 36 (ジャンプコミックス)

  • 作者:冨樫 義博
  • 発売日: 2018/10/04
  • メディア: コミック
 

 ジンやヒソカや会長の息子さんたちは『メイドインアビス』世界に移住した方が幸せなんじゃないだろうか。

 

 

 

 

Tochka Nisshi

注文していた棚が届く。組み立てる。机の横に置く。机の周りがだいぶ整理されて広くなる。うれしい。

 

買い物のために外に出ると、歩き方がよくわからなくなる。身体動作としての「歩行」はできているのだけれど、街を歩いているということ自体に奇妙さを感じる。視界がひらけていて、その中心のすぐ奥に自分がいる。その感覚がひどく奇妙。

 

きのう、突然、わけのわからない飢餓感のような感覚に陥った。社会的なもの、ひとと話すこと、電車に乗って通勤すること、天気を気にすること。そういった、普段は余計なものと感じていたことが完全に自分からこそぎ落とされていることに、体が気づいたというような。

 

バターがスーパーに売っていなかった。

 

じぶんが平常な状態であることに驚く。錯乱したり、不健康な嗜癖に陥ったり、行動の方向性を失ったり、社会的に非難されるような行動をしていない。たぶん。奇妙であるけれども、平常にしている。良いことにちがいない。