しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

Tochka Nisshi

体重が3キロ落ちていた。在宅勤務開始時の目標の一つを達成してしまった。

歩かないので足の筋肉が落ちたらしい。

 

一日中論文を書いている。準備していたメモをちまちまつなげてゆく作業が楽しい。これから少しずつ文章を乾かしてゆかねばならない。


仕事の集中力が切れたら、机の隣に置く棚をAmazonで探してニマニマしている。プリンタとScansnapを置いて、それから何を置こうかと考える。そして満足する。安上がりな男である。

 

博論のときにお世話になった、復興住宅の住民さんに電話する。みんな距離を取って公園で日向ぼっこしていると言う。「戦争じゃないんだから、さいごには明るい未来が待ってます」と断言される。戦後と震災を生き抜いてきたひとの強さ。別の住民さんは「なんかあったら電話する」と言ってくれた。ひとの声を聞くことがこれほどまで支えになるとは。

Tochka Nisshi

午前中、有給休暇を取って献血に行った。

帰りに三宮の地下街を通った。飲食店がおおかた閉店していて、街がすこしずつ傷んでいるとおもった。震災のときは、たいへんだけど開店しよう、開店しようという想いが感じ取れた。いまは逆で、食事は作れるけれど閉店を強いられている。

 

学会の〆切が1週間伸びる。正直ほっとした。良いものを出そう。

 

切り花を買う。

 

縄跳びも買った。これで室内ぴょんぴょんするんじゃー!

 

Tochka Nisshi

作業と会議で一日が瞬く間に終わった。学会への投稿原稿に取り掛かる。質の高いものを出したい。

 

一日家にいて気づいたこと。

1)思った以上に体を動かさない。動いたとしても作業机と台所の往復ぐらい。職場にいるときは意外とせこせこフロアを歩いていたのだと気づく。

2)ずっと室内にいると、視界もだんだん狭まってゆく。発想が狭まってゆく。将来を見据えて大きく構想するということができなくなってゆく。じりじりと。これは危ないことだとおもう。

 

雨で寒い。この春先の冷たさは堪える。

 

Oさんから電話。買ってないはずのお寿司の話。自分に対してアリバイを証明しようとする哲学者。

 

応用哲学会の予稿集が学会事務局からメールで送付される。行きたかったなあ、発表したかったなぁ。

 

昨日と今日ずっと家にいて、いま食料品の買い出しのために外出した。散歩に行く犬の気持ちがちょっとわかった。

Tochka Nisshi

 トーチカ日誌。独居だからトーチカというよりはタコツボだろうか。

 プリンタのトナーを入れ替えると、キューに溜まっていた「ゴミの日カレンダー」PDFが印刷された。いまのところゴミ収集に遅れは無い。しかし三週間後はどうだろうか。改めて、じぶんの生活はさまざまなひとびとのさまざまな仕事の網目で成り立っていたのだとかんがえる。不要不急の外出やタスクというものはあっても、不要不急の仕事というものは無い。昨今流行りの「転売屋」みたいなのは例外かもしれないけれど。

 

 産業や商業や物流や行政サービスの社会的な網目に対するダメージの連鎖が予測しづらいのは今般の災厄の大きな特徴のひとつだろうとおもう。次に何が来るか読めないし、対策の焦点が絞りづらい。たとえば2年前の北海道胆振東部地震では道内で大規模停電が発生した。これは数箇所の発電所の被害による電圧変動が道内の送電網全体に波及したもので、被害を受けていない地域にも停電が広がることになった。この現象はおそらく一般のひとびとにとって想定外のことだった。けれども、電力会社や専門家はす被害が連鎖したプロセスをすぐに特定できた。だから応急対応も比較的すぐにできたし、大規模停電に至ったプロセスを説明されれば市民の側も非常用発電機やモバイルバッテリーの常備といった仕方でそれなりの対策を思いつくことができた。

 ところが今回の場合、たとえば地震動で発電所・変電所施設が直接被害を受けるのではなく、そこで働いている「ひと」がじわじわやられてゆくので、連鎖の発生と影響が予測しづらい。発電所の従業員がまとめて発症するかもしれないし、新幹線の運行司令室がクラスターになるかもしれないし、ゴミ焼却所かもしれないし、石油タンカーの乗組員や、大手配送会社のトラックの整備工場かもしれない。

 新幹線の運行司令室であれば、仮にそこで働くひとが陽性になっても(これを読む方の中に関係者やそのご家族がおられましたら、ご不快の段は平にご容赦ください)JR社内の別の資格者が対応するだろう。しかしそのひとの別の仕事は穴が開く。こうして、北海道の大規模停電のような派手な連鎖は食い止められつつ、各地各部署の組織的対応力が少しずつ蚕食されてゆく。直接に負荷がかかっている病院は別として、それ以外でどこが小連鎖のスタート地点になるか読めない。ゲリラ戦を仕掛けられているような感覚だろうか。

 阪神大震災の直後、中井久夫が「救援に来る外部の存在を市民は確信していた」といったことを書いている。神戸や西宮に、京都から、広島から、四国から消防車が駆けつけた。東日本大震災のときは西宮の消防車が南三陸に入った。ダメージを受けた地域と、そうでない地域=救援の策源地となる地域が比較的はっきりと別れていた。ところが今回はそれと異なり、全体がじわじわ弱っている。大都市がより危険だという情勢だが、その分地方部に余裕があるわけではない。

災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録

災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録

  • 作者:中井 久夫
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
1995年1月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち

1995年1月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち

  • 発売日: 1995/03/24
  • メディア: 単行本
 
復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録

復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録

  • 作者:中井 久夫
  • 発売日: 2011/05/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  サービス業がまず直接の打撃を受けているが、次いで基幹インフラが蚕食され、それにより一次産業と二次産業の運行がガタつく。医療崩壊と並行して、こういった経済瓦解が生じるのかもしれない。

 

***

 

明日からの在宅勤務のために作業机まわりの環境をつくりなおす。電源タップを新しいものに取り替え、磁石と紐で机に固定した。足元の床がかなりすっきりした。

在宅勤務用にWindows機のローカルアカウントを新しくつくる。いまのアカウントはSteamのゲームアイコンがデスクトップに散乱していて、このまま仕事をするのはさすがによろしくない。新しいアカウントでログインしたら、Chromeの同期を復活させて、Dropboxに入り直すだけで環境整備が実質的に終わった。Dropboxはアカウントごとにディレクトリを作ってしまうため、勤務用のはスマートシンクに設定する。

ルンバがLANケーブルを試食してしまうので、ケーブルを壁に這わせて養生テープで止める。フローリングの床に黄緑色の養生テープはさすがに不格好だが、さしあたりはよしとしよう。

 

降雨。寒い。温度計を本棚に置く。

 

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先行文献を洗い直してゆく。ちまちました作業だが、一度まとめておけばその後何度も使える。

 

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夜、同僚のTさんから回ってきた資料を読む。(昨日から「Tさん」ばかり登場している気がする。イニシャル表記するとみんなTさんだ。)

Nisshi

在宅勤務が本格化したので、こまめに日誌をつけてみることにする。

(きょうは土曜日なので正確には在宅「勤務」ではないのだけれど、これまで土日も職場で研究や書類仕事をしていたのが、それもできなくなってしまった。)

 

午前中、ひどく寒気を感じる。3月末から4月上旬にかけて毎年冷え性になるのだが、今年はこのタイミングで来たかというかんじ。

T大学の研究助成の申請について石巻のOさんとLINEで相談する。「コロナでの制約が無いと仮定しての研究計画ってことになります」みたいな話をする。他の科研分担も似たような状況。

T学会の発表原稿について、筆頭著者のTさんとLINEで相談する。

昨日アマゾンに注文した自宅プリンタのトナーが配達される。個別配送網も近い内に蚕食されてゆくだろう。生活物資の物流はどうだろうか。この調子ではそのうち配給切符が郵送されてきたりして。

スーパーで食料品を買うついでに、真空断熱のマグカップを買う。 

 買ったのはこれの蓋がついてなくて白いやつ。

 

在宅勤務はさしあたり5月初旬までという扱いなのだけれど、そこで本当に終わるのか、6月、7月まで延々続くのか、全く読めない。自分なりの目標を設定しないとまずい気がする。

とりあえず、4月末までの目標(と〆切):

学会発表の原稿2本

内部の研究会発表(遠隔でやります)の原稿1本

研究計画提出1本

体重を2キロ落とす

内部の研究プロジェクトの文献レビューに手を付ける

ヨナス『責任という原理』を読む

よし、やろう。

 

粘る水

「国内で毎日500名が新型肺炎で亡くなるという状況が2週間後から始まる」ということを既定の事実として仕事をすること。もちろん、本当にそうなるかどうか、2週間後なのかどうか、わからない。わからないので、既定の事実だとする。そして仕事をする。

 

***

 

 今回の災厄は水害に似ている。ただし水の粘性が10倍とか100倍くらいの世界での水害である。豪雨が降り、地面に叩きつけられた「水」が、ゆっくりゆっくりと水路をつたり、川へ集まってゆく。そして堤防を打ち壊し、乗り越え、床上浸水をひろげる。被災者が避難所へ逃げ、あるいは逃げ遅れ、避難所と病院がパンクし、その影響が周縁へ連鎖的に波及してゆく。また、粘る水は一箇所で堤防を決壊させるだけでなく、溜池や下水設備や砂防ダムにもダメージを及ぼし、そこでも人的被害をもたらす。これを連滝災害(カスケーディング・ディザスター)という。

 本物の水害とエピデミックの違いは、起点から終点への速度だ。水は重力に沿って山から海へと流れ落ちる。降雨から浸水まではおおむね24時間前後の出来事である。感染症拡大はもっと時間がゆっくりだけれど、被害拡大の機構そのものは意外と似ているように思う。つまり水がゆっくりゆっくりと流れ、浸水被害を起こす「水害」なのだ。

危機感と「正常性バイアス」

これから国内で生じうる出来事のパターンを絞ってみる。まったく即物的なやり方として、ただ今般の災厄の、国内の死者の数だけを考えることとする。

 

すると、出来事の取りうるパターンはとても少ない。

(1)今日を限りとしてたちどころに感染症が終息し、現在入院しているひとも順次回復してゆく。死者数は80名以下で終わる。

(2)現在のペースから死者数がほとんど増えずに、じりじりと感染症が終息してゆく。仮に1日の死者数を3名として、100日間それが続くとする。死者数は約400名で終わる。

(3)死者数が漸増してゆくが、効果的な対策によりイタリアやスペインやアメリカほどには増えない。死者数は5000名ほどで終息する。

(4)上記の国と同じくらいに死者数が増える。数万人が亡くなる。

(5)底を割ったように被害が連鎖・拡大し、あるいは別種の災厄が同時に生じ、10万人から100万人が亡くなる。

 

1年後か2年後、わたしはこの文章を読み返す(生きていれば)。すると、5つの可能性のうちのどれかであったことを知ることになる。さらに思いもよらぬこと(第6の可能性)が起きるかもしれないけれど、それを言い当てることにあまり意味はないとおもう。

わたしは疫学や感染症の専門家ではないので、5つのどれに行きつく可能性が高いのかを推測することはできない。1は無さそうだし、5も無さそうだとおもうけれど、では2,3,4のどれになる割合が高いということもできない。ただ、2から5のいずれかになってしまうことは確実である。

 

それはどういうことなのだろう。なにが失われようとしているのだろうか。それは人命であるという答えが返ってくる。それは、そうだ。とはいえそれが意味することを自分は感じとることができているだろうか。明らかにそうではない。

 

***

 

こうした状況において、国民が「危機感」を持つべきことが繰り返し言われている。この危機感という何かは捉え所がない。いちど危機感を抱くと、それを持っていないひとのことがよくわかる。自分が危機感を持つのがいかに遅かったかもよく自省できる。

ところが危機感は長続きしない。危機感にどことなく飽きてしまうか、擦り切れて寝込んでしまう。たしかに危機感によって世界の見え方がいったん更新される。けれども、いつまでたっても危機の本質が顕にならない。そのうち、いつのまにか危機感自体が平常になり、本質を捉えるための粘りや衝力を失っている。世界全体がのっぺりと「危機」に塗り込められ、相変わらず危機感を持たないひとには苛立ち、そして死者の数や現実の変化についての報道が網膜に転写されては消え去ってゆく。人間の精神は「活き活きとした危機感」を長時間保持できるようには作られていない。危機感がかたちのうえでは保たれたまま、いつのまにか中身が摩耗している。

 

危機感をいったん持つと、それを持っていないひとびとのすがたが「正常性バイアス」に陥っていることがよくわかる。しかし摩耗した危機感は、それが世界の見方を固定し、言動の創造性を奪うようになったなら、結局正常性バイアスがもたらす状態と変わりがない。「正常性バイアス」も危機感も世界の捉え方を一方向に固定する点では同じである。正常性バイアスは現在の持続を特徴とする。摩耗した危機感も、危機へ取り組む自分という現在をできるだけ持続させようとする。いずれも現実から微妙に遊離している。そうして、何かが失われようとしている。その「何か」は、なんなのだろうか。

 

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じぶんの基本の問いに立ち返ろう。現実とは何なのだろうか。それは少なくとも失われやすいもの、壊れやすいものである。

 

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現実と真実と事実はしばしば合致しない。それらを微妙にズラし合うことで、社会機構と自我は一日ずつの生活を続けることができる。しかし合致するタイミングが稀にある。それはたとえば、感情を高ぶらせることなく、しずかに悲しむことができるようなときである。イタリアやニューヨークでは、「死者数の増加の程度が低くなった」ということが喜ばれている。医療者への尊敬を大にする。その献身は爾後五百年語り継がれよとねがう。ところで、死者数の増加の程度が低くなるとは、いかなることなのか。ひとが死んでいる。ひとがたくさん死んでいる。ひとが昨日よりもたくさん死んでいる。ただ、一昨日から昨日への増え方よりは、増えていないということだ。つまり、ひとがたくさん死んでいる。そのことを、冷徹にでもなく、動揺でもなく、そのままに悲しむことができるだろうか。わたしは明らかにできていない。

 

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