しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

子羊の掴まえ方(河合隼雄編『心理療法対話』より)

「 長谷川 西洋との違いということでは、私自身、面白い経験があります。以前、ヒツジの研究をスコットランドの沖合の無人島でやっていたのですが、そこでは、子ヒツジの成長を見るために一週間おきに捕まえて体重を測るんです。その捕まえるのがなかなか難しいのですが、わたしはそこで独自の方法を考案して、すごくよく捕まえられるようになりました。ところが、イギリス人は誰もこの方法ができなかったのです。

 その方法というのは、ヒツジはみんなよく昼寝をするんですが、一本も木がない草原なので全部見えるんです。それでよく見ていて、ぐっすり眠っている親子のところに真後ろから一歩一歩近づいて行って、ちょっとでも母親が起きてこっちを向いたらピタっと止まって知らん顔をして、向こうが安心して、寝静まると(耳が垂れるとわかるのですが)、またちょこちょこと近づいて、のこり二メートルか三メートルぐらいになったところでポーンと飛びかかって、子ヒツジをお腹のところに抱え込むんです。一匹捕まえるのに三◯分くらいかかりますけれども、この方法はわたしが編み出して、結局二週間で、合計六九匹捕まえました。ところが、そこで何年も研究をしているイギリス人はこの方法をまず思いつかなかったんです。彼らがやっていたことといったら、ラグビーのタックル方式で、とにかく子ヒツジを見つけたらダァーッと走って、足を捕まえるか、でなければ、岩屋に追い込んで、真っ暗の中で全部捕まえる。要するにカウボーイ的な発想です。」

河合隼雄編『心理療法対話』岩波書店、2008年、181頁。生物学者・長谷川眞理子氏との対談)

研究室リソースの使い方

 倫理学専修or臨床哲学研究室の学部生・院生のみなさまへ(とくに卒論・修論を書かなくちゃいけない方たちへ)。

 この文章では、研究に必要なさまざまな「資源」の使い方を説明します。資源とは、書籍やプリンタやカメラなどの備品、図書館の論文取り寄せシステムなど、研究のために使ってよいモノやサービスです。また、広く捉えれば同級生や院生の存在もそこに含まれるかもしれません。ここではこれらを大雑把に「研究室リソース」と呼ぶことにします。

 

 研究室(学部生室、院生室、各教員個室、助教室)にはいろいろなリソースが蓄積されています。どこにどんなリソースがあるのか、どうやって使えば良いのかを説明するのがこの文章の目的です。

 

1. 学部生室・院生室の蔵書

 学部生室と院生室の蔵書は自由に借りることができます。借りる場合、助教室の貸出表に氏名等を書いてください。

 学部生室にあるのは日本語の書籍です。カント、ヘーゲルライプニッツフロイト等の翻訳版全集と、より新しい時代の書き手の書籍があります。岩波文庫も多く置いています。

 院生室にはドイツ語の蔵書日本語の雑誌類があります。雑誌は『思想』『現代思想』『情況』『大航海』などの総合雑誌と、『現象学年報』『倫理学研究』『倫理学年報』『医学哲学 医学倫理』などの学会誌があります。また『死生学研究』『死生学年報』も読み応えがあります。

 院生の個人蔵書もこっそり本棚に置かれています。これも、一声かけてもらえれば本棚から借り出してくださってかまいません(おそらく、そのために置いています)

 院生室にはまた、辞書・事典が大量にあります。英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などの一般的な国語学習用辞書のほか、『哲学・思想事典』『看護大辞典』『フェミニズム理論辞典』『現象学事典』『現代社会学事典』『生命倫理事典』『カント事典』『ヘーゲル事典』『ニーチェ事典』などの専門事典があります。先人の智慧が濃縮されています。使い尽くしましょう。

 

2. PCとコピー機、無線LAN

 院生室にはPCが2台とネットワークプリンタが1台、学部生室にはPCが1台とネットワークプリンタが1台あります。自由に使えます。また、学部生の方も院生室のPC/プリンタを自由に使ってくださってかまいません。

 プリンタはそれぞれカラー・白黒が選択できます。また、ドライバをインストールすれば、自分のノートPCから無線LANでプリンタを使うことができます。インストールの仕方は院生に聞いてください。

 学部生室と院生室にはそれぞれ専用の無線LANが飛んでいます。パスワードは部屋にいる院生とかに聞いてください。

 

 3階の廊下のつきあたり、「研究室B」コピー機があります。このコピー機を使いたい場合、院生室の戸棚にある「研究室Bの鍵」と「コピー用カード」を取り出して使います。コピー用カードはコピー機のリーダーにスライドさせて使います。使い終わったら、紙の使用枚数をノートに記入します。あれこれの使い方がわからなかったら、いつでも院生や学部生の先輩に聞いてください。また、縮小・拡大コピーや、両面印刷の仕方などがわからないときも聞いてください。

 1階の研究支援室にはさらに大きなコピー機があり、これは自動でホチキス止めまでしてくれるスグレモノです。向かいの印刷室には、より安価に大量印刷できる製版印刷機があります。これらも使い方を覚えて損はありません。

 

3. 助教室の機材

 助教にはノートPCデジタルカメラICレコーダなどの機材が保管されています。研究活動のために(≒それなりの理由があれば)借りて使うことができます。CAさんに聞いてください。

 

4. 院生室の炊事・軽食

 院生室には電子レンジ小型炊飯器冷蔵庫電気ケトル、小さな水道があります。また、コップ紅茶コーヒー割り箸などが常備されています。お弁当を温めたり、コーヒーを淹れたり、休息のために存分に活用してください。

 

長くなってしまった… 「図書館サービス」と「Web上のサービス」は別に分けて掲載することにします。

stomachacheは「胃痛」ではない(?)

 以下は、最近3ヶ月在米していたパートナーから教えてもらった話。外国語学部出身で、英語のよくできる人である。

 

 あるとき胃の不快感に悩まされ、薬局で「stomacacheに効く薬をくれ」と頼んだ。欲しかったのは日本でいう「胃薬」である。しかし出されるのはどう見ても下痢止めの薬ばかりだった。

 自分でよくよく探してみると、日本でいう「胃薬」に相当するものはacid reducerという名で売られていた。

 

 つまり、stomachとは胃ではなく、stomachacheは胃痛ではないらしい。上記の例ではむしろ胃より下の下腹部、よりぴったりとした日本語を探すなら「おなか」に近いらしい。だから「stomacheahceがある」は、日本語の「おなかが痛い」というニュアンスになるので、下痢止めや整腸剤の類を出されたわけである。

 

 辞書をひくと、なるほど「stomachache 胃痛、腹痛」と順に記してある。あくまで胃痛も含む広い概念なのだろうか。「have a stomachache 胃が痛い」という例文もあるが、これは「お腹が痛い」と修正すべきであるように思える。

 ではstomachはどうか。第1の語義は「胃」で、第2に「腹部、腹、下腹」と記されている。ややこしいのは、解剖学的な観点ではstomachは確かに「胃」であるということである。stomach cancerは「胃がん」である。

 つまり医学的部位としての「胃」と、もうすこしぼんやりとした日常用語としての「おなか」の両方のニュアンスがある。しかし、私個人の経験では、stomache=胃とのみ覚えさせられたように思う。日本の英語学習のフィールドでは誤って「胃」の意味のみが強調されているような気がする。

 

 日本語の「胃が痛い」は、「強いストレスにさらされている」「悩み事に苦しめられている」というニュアンスも含まれている。この場合、やはり痛いのは心臓の下からみぞおちの間あたりのキリキリとした痛みであり、トイレにかけこみたくなるという印象ではないだろう。(もちろん、ストレス性の下痢という事態もあるけれど)

 だから、もしかしたら「仕事でこんなトラブルがあってねえ」と話したあとに「胃が痛いよまったく」と表現するつもりで「I have a stomacache.」と付け足したら、逆に混乱を招くかもしれない。


とりあえず以上のように整理したけれど、 stomach(ache)が何をどのように意味しているのか、からだに直結していることばであるだけに、そう単純ではないような気がする。

 

 ちなみに、stomachには他動詞として「胃に収める」「侮辱などを我慢する」という意味もあるという。

「Who could stomach such a insult? だれがこんな侮辱に耐えられようか」

という例文があった。これは日本語の「腹に据えかねる」という表現と微妙に似ているところがあっておもしろい。

【提言】小学校低学年における〈うんこ教育〉の必要性

 なぜ、小学生は、とくに男児は、小学校のトイレで「うんこ」をすることをあれほどまで忌避するのだろうか。あれはなんだったのだ。

 小学生のとき、校内でうんこをするというのは、きわめて勇気のいることだった。誰にも見つかってはならなかった。わたし自身、2,3回くらいしかした記憶がない。

 

 校内うんこを避ける理由はとくにない。小学生は実はうんこ大好きなのに、じぶんが校内で実際にうんこをすることには、きわめて敏感なのである。

 

 男子の場合、うんこ=トイレの個室であるから、うんこバレしやすい。そしてうんこしたのがバレると、他の男子がとたんにウェーウェー言うのである。

 

「○○、学校でうんこしとー!」「うんこマンや!」「男子やのにうんこしとー!」「女子やー!」

 

 なんなんだ、おまえたちは。家のトイレで出そうが、学校のトイレで出そうが、うんこはうんこだろうが。というか、どっちみち家でうんこするだろ。

 重ねて言うが、校内うんこ忌避にそれ自体の理由は無い。もちろん、もし自分が校内でうんこするのがイヤなら、しなければいい。しかしこのうんこ忌避は、もっぱら他人のうんこ行為を指弾するのである。相互牽制、相互監視であり、社会的うんこ抑圧なのである。

 

 この無意味な抑圧によって、男児たちは大多数のうんこ忌避者と、少数の隠れうんこ遂行者に分かたれる。うんこ忌避は実際身体に悪いし、隠れうんこ遂行も心理的にきわめて負担が大きい。

 そして、うんこ抑圧システムは、さらに少数の、真なる犠牲者を最後に生む。

 

「○○、うんこ漏らしとーー!!」

 

 これは生涯消えぬ汚点であろう。この瞬間、教室内でうんこを漏らしたX君は完全にヒエラルキーの最下層に転落する。(宮沢賢治の『猫の事務所』では最後にライオンが「この事務所は今日かぎりで閉鎖!」と叫ぶが、わたしは今からでも小学3年生のときの教室に戻って、A君がうんこを漏らす直前に、「この教室は今日かぎりで解散!」と宣言してあげたい)

 

 うんこ抑圧システムの特徴は、そこに組み込まれた男児全員において、得をする者がまったく存在しないことである。おそらく校内における男児アイデンティティの確立=女児との差別化のわかりやすい指標として、トイレ個室(=女児)の使用忌避が求められ、さらにこの社会的抑圧が肛門における制御という生理的精神的抑圧と容易にリンクするのだろう。いいからうんこしろ、うんこ。

 

 だからわたしは提言するのだが、小学校の教員、とくに1,2年生の教員におかれては、本気で「うんこ教育」を児童、とくに男児に実施してほしい。

 方法自体は簡単で、とにかく入学初日から、校内でうんこに行くことを奨励するのである。うんこはいいことだ、うんこは大切だ、うんこ・イズ・神聖、他人のうんこにとやかく言うな、先生もきのう学校でうんこしたぞ、云々。

 この教育によって、勇気ある児童が「うんこ行ってきた!」などと言い始めたなら、しめたものである。その場合は諸手を挙げて賞賛してほしいのである。「ユー・アー・グレート」「ユー・アー・プレシャス・ウンカー」「ウイ・アー・プラウド・オブ・ユア・ウンコ」と。「we are the children, we are going to Unko」と唱和しても良い。

 

 トランス・セクシャルのトイレをどうするかという問題についても、この時期のジェンダーアイデンティティ形成と生理的うんこ抑圧の結びつきという記憶を解除しておかなければ、うまくいかないのではないか、とおもう。考えすぎか。

 

 とにかく、以上によってうんこ教育の必要性をわたしは訴える。そして小学生よ、臆せずうんこ行け。

 

 

ケンタッキー州「中絶を受ける妊婦に胎児の超音波画像を見せる法案」の続報

yomu.hateblo.jp

 

 米国ケンタッキー州で、中絶手術を受ける妊婦に、胎児の超音波画像を見せ、心音を聴かせることを強制する法案が提出されたというニュースが今年のはじめにあった。

 上記エントリではこの法案があまりにグロテスクだと批判をこころみたが、その後、この法案がどうなったかが気になっていた。検索すると新しいニュースがすぐに引っかかったので、すこし紹介したい。

 

www.usatoday.com

 

 記事によると、The American Civil Liberties Unionという団体が、同州で唯一中絶手術を行っている「EMW Women's Surgical Center」を代理して、この法案の差し止め訴訟に打って出た。法案そのものは1月9日に知事が署名したのだが、この訴訟により裁判所から(日本で言うところの)差し止めの仮処分が下されている状況らしい。

 

 ACLUは「超音波法」反対の立場に立っている。ACLU側の弁護士は、この法案が、医師が患者に対して自由に話し、適切な情報を与えるのを禁ずることになるとして、合衆国憲法修正第一条を侵害するものだと主張している。すなわち、この処置の最中、医師は超音波診断用の器具を患者の女性器に差し込みながら、画像を見て胎児の様子を説明しなければならないが、これは医師・患者の双方に多大な苦痛を与えるものである、と。

 

 なぜ修正憲法第一条の侵害という主張なのか。修正憲法第一条は「言論の自由」を保障する。門外漢なので全くの推測だが、ここでの「言論の自由」は、言いたいことや書きたいことを政府に抑制されてはならないというニュアンスだけでなく、自分の意に反することを述べるよう強制されてはならない、というニュアンスもあるのかもしれない。だから、中絶手術を受けに来ている女性に「ほら、今から中絶されるあなたの胎児はいま子宮内でこのような姿をしています」と説明するよう強制されることは、医師にとって「言論の自由の侵害」にあたるわけである(と、とりあえずわたしは解釈した…)

 

 さてACLU側の主張に対し、州の保健行政側の弁護士は、本法案は「中絶を後悔するかもしれない女性、中絶の手続きについてよく理解していないかもしれない女性を守ること」を意図しているのだと反論する。超音波画像と心音によって、女性は「ああ、わたしの中にひとりの生きた人間がいる、本当は自分は中絶なんてしたくなかったのだ」と再考するに違いない、と。

 

 以下自分の感想。法案の反対の論拠が、「医師の言論の自由を侵害する」という筋で示されているのが意外だった。手術を受ける女性に不要の苦痛を与えることが最大の問題だとわたしは思うのだけれど、法廷ではそこを攻めても勝ちにつながらない、ということなのだろうか。

 第2に、「女性を守るための法案なのだ」という推進側の主張がやはりグロテスクきわまりないということ。中絶を受ける女性=自分が誤った判断をしていることに気づかない存在、と設定したうえで、彼女らに正しい道に戻るための機会を与えてあげるのだ、という考え方である。パターナリズムのお手本だ。

 「誤った判断」をしようが、それはあくまで彼女ら自身の判断であって、他人が口出しすべきではない……というふうには、「超音波」賛成派のひとびとは考えないらしい。

 かれらにとって、彼女らが「正しい道に戻らない」ことは「死後に地獄に堕ちる/最後の日に復活できない」ことを意味するのかもしれない。そうなると、彼女らがみすみす堕落してゆくのをだまってみている自分も同罪である。そういう論理があるのかもしれない。

 

声が詰まる。

 なぜひとは、うまく話せないことがあるのだろう。あらゆる人類が、機械音声のように、ただ情報伝達としてのコードを口から発音するだけなら、どれだけ「楽」だろうとおもう。

 

 おもわず喉もとが硬く締め付けられて、ことばがうまく出ない。相手の相槌を待つことなく、だだーっと一気に話してしまう。目をうまく合わせることができず、声がくちびるを出たところでうろうろさまよってしまう。言葉の代わりに涙がじわっと出て、何も話せなくなる。手が震える。変な力みが耳の後ろから首にかけてこわばりを作る。声が裏返る。

 

 「こうすれば落ち着いて話せます」という指南書は世の中に溢れているけれど、そういった心理的テクニックのみで全てがコントロールできるわけではない。披露宴でも葬式でも就職面接でも、全て似たように朗々と落ち着いて言葉を垂れ流すことのできるひとがいたとしたら、それはきわめて不気味である。

 

 人間は言語を自在に操ると思われているけれど、じつのところ身体において「声」はとても弱い器官である。単語の羅列を情報としてすらすら叙述することはできず、身体のほうが実はしばしば主権を行使する。

 といっても、明確な単一の主権者が心身のどこかに存在するのではなく、単語、声、音、喉、舌、息、これらすべてが連立与党を構成していて、そいつらがときたま足並みを乱すということなのだろう。おおくの人は、それらの連立与党を最終的に統括する最高位者として、「意識」や「脳」や「わたし」が存在すると仮定しているけれど、現実にはそんな統括者は存在しないし、存在していたとしてもきわめて弱い権限しか持っていない。だからこそ、取り乱すとか、思わず声に詰まるといったことがひとには可能である。

 

イラク帰還米兵のはなしを聞きに行った。

 豊中国際交流協会の小さなイベントに行った。

 アッシュさんという名前のお兄さんが、戦地での自分の体験を話した。

 アッシュさんは「イラク帰還米兵」である。高校卒業後に州兵に入隊し、計6年間、従軍した。かれはクウェートイラクにいた。

 

 アッシュさんはいろいろなことを話した。話の芯にあったのは、軍隊は基礎訓練で兵士のアタマを作り変えてしまう、ということだった。たしか、「神経を取り替えてしまう」「brain washする」という表現を使っていたとおもう。

 どのように作り変えるのか。それは、派遣先の現地のひとびとを、ひとりずつの人間だと感じないようにする、ということである。

 

 クウェートイラクで、アッシュさんたち米兵は、地元のひとびとを「ハッジ」と呼んでいた。本来は「巡礼」という意味だけれど、米兵たちはこの言葉をthing、つまり「モノ」という意味で使っていたという。

 モノなので、それが困っていても、ケガをしたり死んでしまったりしても、兵士たちは何も感じない。たとえば道端で車が故障して立ち往生している同胞を見れば普通は助けようとする(兵士たちはそのための機材も持っている)が、それがイラククウェートのひとびとなら、「壊れた椅子が道端に放置されているのと同じ。椅子の脚が折れていても、わざわざそれを修理するために車を止めることはない」と。

(かれは話の流れで「車が故障して困っているとき」というたとえを用いたけれど、現実にはもっと生身にひどい状況があったのではないかとおもう。つまり、脚を骨折したり大怪我している現地民を見ても、椅子の脚が折れているようなものと感じていた、ということだったのではないか)

 

 このような感じ方をするのは、アッシュさんや他の兵士が悪人だったからではない。軍隊が兵士の精神をそのように作り変えてしまうのである。たいていの兵士は、つまるところ普通の若者たちにすぎなかった。

 アッシュさん自身は、大学進学のための資金を求めて入隊した。「軍隊は少年を一人前の男にする」というのがアメリカでよく使われている募兵の宣伝文句だそうだ。アッシュさんを含めて、多くの若者たちが、それを素直に信じて入隊してくる。しかし現実には、かれらは疲弊しきって、神経をびりびりに張り詰めて帰国する。

  

 アッシュさんは最後に印象深いエピソードをいくつか話した。

 戦地でかれが基地の見張り台に立っているとき、地元民の男性が、基地の周囲で何か作業をし始めた。米軍基地の周辺は非常に危険である。見張りの米兵もしばしば彼をいぶかしみ、銃口を向けた。そのうち、この男性は苗を植えているのだとアッシュさんは気づいた。麦の苗だった。緑色の畑地が基地の周辺に広がった。

 そこで初めてアッシュさんは、この男性がハッジ(=モノ)ではないと強く気づいた。なぜこのような危険な場所で農作業をしているのか。それはこの男性が、自身やかれの家族を食べさせねばならないからだ。アッシュさんの祖父も、大恐慌時代に苦労して働き、家族を養った。ただ生きのびるために、子供たちを飢えさせないために、危険を冒して苗を植えている。それはイラク人でもアメリカ人でもロシア人でも同じことにちがいない。このようにアッシュさんは言った。

 

 帰国してから、どのように元の生活に再適応してゆきましたか、と質問した。アッシュさんは2時間ちかく話しつづけていて、この質問をしたときはだいぶしんどそうだったけれど、とても丁寧に答えてくれた。曰く、帰国した直後は感情の制御ができず、かれの家族や恋人にとって、すごくすごく危険な存在だったという。かれと活動を共にしている通訳の方が「かれはいまangerと言いましたけれど、もっと言葉にできない、ぐつぐつした感情でしょうね」と補足してくださった。

 そうした状態が3, 4年つづいた。転機のひとつが、ベトナム戦争帰還兵と話したことだった。彼らはやはり同じような体験をしているので、感情の障害や苦悩などをすんなりわかってくれた。わかってもらえたこと自体に驚いた、ともアッシュさん言った。かれは自分の心理を分析していった。「心の中に箱があって、それを開くとまた小さな箱があって、開くとまた箱があって…と、くりかえすようなもの」と言った。わかりやすいたとえだと感じた。(リフトンがベトナム帰還兵との対話の描いた Home from the Warに、たしか玉ねぎの皮を一枚ずつ剥いてゆくという喩えが出てきたような記憶があるが、定かでない)

 

 ひとつ知識として知ったのは、イラク帰還米兵がベトナム帰還兵と体験を共有できるということだった。この2つの世代の間には湾岸戦争というもう一つの戦争があるのだけれど、おそらく「負けた戦争」の兵士同士のほうが何かと通じやすいのだろう。