しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

出っ張ったところと凹んでるところ(おちんちん考)

 おちんちんは出っ張っている。おまんこは凹んでいる。おちんちんというものがここまで出っ張っていなければ(哺乳類がペニスという器官を持たなければ、ということになるのだが)、人間の生き方やものの考え方というものはさまざまに変化しただろうとおもう。

 

 なにかの雑誌に、人間は男根というでっぱったところをきっかけにして「象徴」を持つようになるのかもしれない、と書かれていた。

 

 それは精神分析の難しい話でよくわからなかったけれど、なるほど人間のからだの名前が付いている部位は、たいてい出っ張ったところで、凹んでいる部位にはあまり固有の名前が付いていない。

 からだのサーフェイスの、凹んでいる部分を探してみる。「肘の裏」「膝の裏」「指と指のあいだ」「くるぶしの真下のやわらかい部分」など、たいていは「○○の△△」という表現がなされる。*1 これに対して、それ自体の固有の名前を持っている部位は、たいてい、出っ張った部分、硬い部分である。「ひじ」「ひざ」「かかと」「ゆび」「あご」のように。

 医学用語としてはもっと細かく名前が指定されているのだろう。しかしそれは、医学が身体を「硬い」「やわらかい」「目立つ」「凹んでいる」というイメージの濃淡を排して均等にマッピングしているからだ。

 

 やわらかいところ、隠れているところ、奥まっているところ、凹んでいるところには、あまり名前がついていない。ただ目立たず、けがをしないように、ひっそりとからだのサーフェイスを構成している。

 

 これに対して、名前がついている部位は、世界に向けて強くエンゲージしている部分でもある。触れ、語り、聞き、ぶつかり、ときにケガをする。わたしが身体の焦点を毎秒毎秒つくってゆくとき、それらのポイントはマッピングの基準点・標高点の役割を果たしている。

 

 「くちびる」や「おっぱい」や「おしり」は、やわらかいが、でっぱっていて、名前が付いている。やはり自他に対して目立ってゆく部分である。

 

 人間のからだのサーフェイスは、これらの〈名前を持つ、硬い・目立つ部分〉と〈名前を持たない、やわらかい・奥まった部分〉をつなぎあわせて、それらのグラデーションを描きながら構成されている。ところがわからないのは、おちんちんは、その硬軟の配置のなかにごく自然に編み込まれているのか、それとも何か別格の「出っ張り方」を帯びているのか、ということである。

 

 わからないまま文章を終えます。久しぶりに書きました。

*1:「土踏まず」は数少ない例外である。

東神戸病院内の「震災遺構」

 狂犬病の予防接種のために東神戸病院(神戸市東灘区)に行ったら、なつかしいものを見つけた。

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 あまりうまく写真を撮れていないけれど、これは新規外来者が問診用紙に記入する机です。

 んで、そこに置かれてた鉛筆。

 

 これ、1995年の震災のとき、インドから救援物資として贈られた鉛筆なのじゃないかと思います。

 全く同じものを自分も小学校で貰って使っていました。日本の鉛筆に比べて、芯も材木もあまり質が良くないのです。でも、なんだかありがたいなーと感じてた記憶があります。「インドのえんぴつ」「インドのえんぴつ」とみんな言っていたような。

 インドのひとにも気にしてもらっとーねんなーという感覚を子供心に持てたのは、きっと何か意味があった。だれだか存じ上げませんが、鉛筆送ってくれたインドのひと、ありがとう。

 

 さてその鉛筆がなぜ東神戸病院にあったのか。これが1995年当時のものか、確定はできない。しかし病院スタッフがインドからの観光旅行のお土産でこの鉛筆をわざわざ買って帰るということも考えにくい。

 

 東神戸病院にも当時この鉛筆が直接配布されていて、いまもその在庫を使っているのではないか。あるいは、看護師さんの子供さんが貰って使っていなかったのを持ってきたのか。

 1995年当時のものと断定はできないけれど、もしそうだったなら、このインドえんぴつは小さな「震災遺構」と呼んでいいかもしれないとおもった。

 

 

震災追悼のこころみを神戸新聞に掲載してもらった

www.kobe-np.co.jp

 

 去年の4月ころからこつこつ準備をしていた取り組みです。17日を前に、今日の朝刊で紹介していただきました。

 記事内容はとても的確で、じぶんの舌足らずな説明を、紙面ではすっきりと過不足なくまとめてくださっていると感じました。ほんとうに、ありがたいです。

 記事を読まれた方、とりわけ遺族の方がどのように感じられるか、どのような応答(もちろん批判的なものも含めて)があるのか、とても不安だというのが正直なところです。

 京阪神/国内ならばどこへでも説明・議論・ご意見聴取に伺うつもりですので、この取り組みについてご意見お持ちの方がいらっしゃいましたら、いつでもご連絡ください。また、この震災で亡くなった方のお名前の読み方や年齢、地域名(町単位まで)などの情報をお持ちの方もぜひご連絡ください。

窓枠

 実家で寝転んで窓から空を見ている。大阪や京都に比べると、神戸はわりと空が近い印象がある。雲の「きめ」がはっきりと見える。寒波の気流に引き込まれてゆく雲の動きに連動して、たまに部屋がふっと暗くなって、また明るくなる。東へ東へ移動してゆく。窓枠の上から現れて下へ消えてゆく。大阪朝高の窓枠集めはどうなったやろとぽつんと思う。

  光を浴びているだけで、何もしていない。じぶんは案外植物であったとおもった。ただ浴びている。明るさを受け取らされている。そうかじぶんも植物だと考えて、どこか誇らしく感じる。しかし体内に葉緑体を持っていない。光合成はしていない。本物の植物と同じ位置にはいないので、謙虚であらねばと考え直す。身の程を知った。ちょっと寝返りをする。水を吸う根っこも無い。眼が乾いたのか、眼球表面にじわっと涙の層が供給された。

 めを閉じる。依然としてまぶたを透かして光がやってくる。まぶたの意味ない。それは薄い。いちばん薄い部分は0.06mmだそうだ。だがサガミオリジナルはその1/3で、すごいなあと思う。謙虚であらねば。

「小さなもの」がパブリッシュされたよ

雑誌『臨床哲学』18号が公刊されました。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/clph/syuppan2_vol18.html

 

去年の早春から取り組んでいた「小さなもの」も載っています。

じぶんがこれまで書いたもののなかでいちばん大切なもの。とても嬉しい。

読んでもらえるとさらに嬉しいです(リンク先からPDFでそのまま読めます)。

「中絶前の妊婦に胎児の画像と心音を」法案について

www.cnn.co.jp

 

 このニュースを教えてくれた方が「グロテスクの一言」と言ってくれた。わたしも同じ感想を持った。

 この法律のグロテスクさ、ヤバさを多少分解してみたい。

 

1.心音を聴くのは妊婦だけ?

 上記のニュース記事では妊婦が胎児の心音を聴く・画像を見ることになっている。「父親」への強制については言及されていない。

 法案原文にあたっていないので、強制は妊婦のみなのかわからない。もし妊婦のみなのだとしたら、なぜ父親は免責されるのか、なぜ妊婦だけがこの苦痛を味わわなければならないのか。

 もし妊婦のみが心音・画像への曝露を強制されるなら、中絶という「非道徳的行為」の責を女性にのみ負わせようとする態度があると言わざるをえない。

 

2.中絶の抑止にはならないのではないか。

 法案は中絶を厳罰化することが目的であると思われる。胎児の心音・画像によって、妊婦が胎児の生命の存在を認識し、中絶を「思いとどまる」ことが期待されているのだろう。しかしそれで本当に妊婦が中絶を回避して出産を決意する例が多く出るだろうか、という疑問がある。

 多くの場合は、心音を聴き画像を見たうえで中絶を続行するだろう。となると、このプロセスは抑止力を持たず、妊婦がもともと感じている罪責感や苦痛をより強化することにしかならないだろう(※罪責感を感じるべきだと言っているのではなく、実際問題として多かれ少なかれ感じていることが多いだろうということ)。

 つまり、法律の目的が、中絶の抑止にではなく、中絶を選択した妊婦/女性に対する懲罰にあるように思われる。

 

3.心音、エコー画像という医療技術が中絶の道徳的価値付けの強制に用いられている。

 胎児の心音を聴き取る技術や、エコー画像の技術は、そもそも妊婦・胎児の健康な出産を助けるために用いられるはずのものである。仮に中絶手術にそれらが用いられることがあっても、あくまで手術を安全に進めるために使用されるはずであって、妊婦に精神的な負荷を過重にかけるために用いられるべきものではない。

 つまりこの法律では、医療技術を道徳的な懲罰具として用いようとしている。

 

4.妊娠/中絶という私秘的な出来事を、技術によって「見える」ようにする。

 そもそも妊娠も中絶も、からだの中で起きること、部屋のなかで起きること、女性と男性のきわめてプライベートなできごと・行為である。

 もちろん、いったん子供が生まれてしまうと、育児は部屋の中だけでは完結しないので、ある程度の社会性を帯びざるを得ない。新生児の「お披露目」はその儀式である。

 ところが、心音やエコー画像は、祝福された「お披露目」よりも先に胎児を可視化してしまう。幸福な妊娠・出産ならばそれでも問題は生じにくい。しかしこの法案では、中絶の場合も胎児を可視化しようとする。

 無理に可視化しなくても、女性は妊娠をさまざまな仕方で実感している。はっきりとした変化として、おぼろげな知覚として、神秘的な、あるいは気味の悪い体験として。それを「可視化」することは、妊婦以外の人間の視線を仮想的に導入することなのだ。診療室という限定された空間ではあるけれど、胎児の存在を客観性を持ったものとして引きずり出す行為である。「ここに胎児がいるぞ!」と公共に触れ回るということ。そのとき女性の存在は「胎児のための何か」へと変質させられる。天使の受胎告知を一方的に受けさせられるマリアのように。

 心音、エコー画像によって、妊娠という体験が、社会の道徳的視線にいっきょに晒される。つまりこの法案を考えたひとが言いたいのは、「俺の知らないところで妊娠するな、中絶するな」なのだ。

 

5.そもそも医療ではないし、インフォームド・コンセントも取れない。

 ごく単純に考えて、これはそもそも「医療」「治療」ではない。妊婦の苦痛を強化するだけで、中絶の過程には全く必要無い。

 治療と人体実験では患者への説明と同意(インフォームド・コンセント)が必須であるけれど、この法案はその鉄則を完全に無視している(そもそも「義務付け」はインフォームド・コンセントの理念と真逆だ)。中絶前に胎児の心音やエコー画像を認識したいと望む妊婦が多いとは思えない(少数はいるかもしれないけれど)。妊婦の同意が取れないままこの処置を強行するなら、その医療者はインフォームド・コンセントを謳ったヘルシンキ宣言に違反していることになろう。

地球型ではないけれど、アレであるもの

 宇宙人はいるか、地球外生命体は存在するか。ということを探るとき、「水」の有無が大きな問題になる。太陽系のある衛星には実は水や氷が豊かに存在するとか、もっと遠い惑星からのスペクトルを調べると水の存在が確かめられるとか、天文学者はそういう探索をいろいろと試みている。

 

 生命にとって水は欠かせない。水と空気。なんらかの有機物と無機物。水を基本としていろいろな条件と材料から原初の生命が生まれたらしいし、すくなくとも今の生きものに水は絶対に必要である。

 

 したがって、地球外生命体を探すことと水のある星を探すことはおおむね連動した目標であるし、さらに縮めて言えば水と生命はほぼ同一視されている。生命体が存在するなら、それは地球に似た惑星、水とその他の物質を持つ星に違いない。

 

 けれども、水とは無関係に成り立つ生命体も成立しうるのではないか。渇いた星だけれど、たしかに生物と呼びうるものがうごめいている。そんな星もあるかもしれない。

 水抜きで細胞やDNAなどの構造が生じうるのかわからない。自分には想像がつかないけれど、細胞に類似した構造が成立するかもしれない。すくなくとも想定のみは許されよう。

 

 ただこの想定でも、生物「体」というイメージはまだ保持されている。個々の個体が存在し、それらは互いに捕食や生殖や無関心といった関係を持ち、ある種族や個体が繁栄・淘汰する。わたしたちが地球外生命を想像するとき、このような前提がある。

 

 さらに飛躍して、もはや個体とも群体とも言えず、生命「体」とも言えず、繁栄や淘汰や種や生存競争といった概念も当てはめられない、けれども確かに生命だと呼びうる何かが存在することはありうるだろうか。

 

 具体的な例は出せないのだけれど、たとえばある惑星の群れの間に取り交わされる何らかの信号が複雑だけれど一貫したパターンや構造を保っており、それが単なる物理現象以上の何かとみなさざるをえない、といった状況である。

 

 ただしこの例でも、「パターン」「構造」という前提は保たれている。さらに想定を進めて、もはや「構造」ですらなく、私たちには想像すらつかないけれど、しかし実際にそれに接してみるとたしかにそれも生命であると言わざるをえない、そういった何かに出会うかもしれない。

 

 もしそういった何かに出会ったなら、わたしたちは生命の本質についての定義を改訂しなくてはならないだろう。それは十分起こり得ることだとおもう。ただし、その新たな本質を見抜く力が人間に備わっているとしたらの話である。

 

 あるいは、その本質を改訂する可能性に常に開かれていることが、生命の本質なのかもしれない。「あ、これは地球型生命体とは全然ちがう……まさかこういうアレで来るとはめっちゃ想定外……けどこれもやっぱ生命やん…」という事件が起きないと確約されているなら、それはたいそうつまらないことだとおもう。

 そして、もしそういった可能性が許されているなら、それは必ず地球外に存在しなくてはならないものではないだろう。いまこの星のうえでそういったことに出会うことも案外ありうるかもしれない。

 

 などという妄想をしていました。