しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

スチール本棚を買った

 いまのワンルームに引っ越して一年余、本棚無しで研究生活を送ってきた。

 現在、書籍は段ボール箱などに入れて保管している。数えてみたら、引っ越し時に詰めた段ボール箱7つ、ニトリで購入した整理用の段ボール箱が大サイズ中サイズ2つずつ、計11個箱に分散していた。これらに加えて、目下使用中の書籍を床に平積みしている。埃が積もるし、崩落の危険が大きい。置いているだけで傷んでゆくという、本にとってはたいへん申し訳ない状況だった。書類の整理もできていない状態。

 

 本棚を買わなくちゃとずっと思っていた。しかし、アマゾンやニトリを眺めていても、基本的に木製の本棚しかない。木製がダメというのではないけれど、アマゾンにあるような本棚は基本的にインテリア面が重視されていて、収納力に不満がある。棚板とかが「分厚い」のだ。

 もっとシンプルな、がちっとした、図書館や研究室で使われている金属の本棚が欲しい。これはどこに売っているのだ、という話を研究室で先輩としていた。

 

 そしたら、売っていた。

 

www.steeltana.com

 

 そのまんまやんけ、というサイト名。すばらしい。いろいろ探して、この高さ1920mm、横幅940mm、奥行き260mmのものを注文した。送料込みで28000円ちょっと。なお、組み立ても依賴すると追加費用が発生する。

www.steeltana.com

 

 到着したら続報等を載せまする。なお上記リンクはアフィとかではない。

土人考

 「土人」が尊称・敬称になる日が来るであろうか。土人を蔑称として使うなら、その人自らは空の人、天の人であろうか。空の人は死ねば土に埋もれぬのであろうか。あるいは霊魂はパケットや電磁波となって土に決して触れぬままであろうか。

 土人を土から引き剥がして得た地は、いったい何であろうか。それは面積であって土ではない。区画であって深みではない。領地であって柔らかさではない。そこに改めて立派な構造物や、美麗な自然環境を植え付けたとして、果たして深く根付くであろうか。その土にもっとも根付いていたものの一つが、「土人」であったのではないか。

 しかし、土から離れて生きることはできない、と宣言してみても、その宣言そのものがもはや土から離れている。多くのものは、もはや土から離れて生きざるをえない。しかしその不安を、「土人」を土から引き剥がすことで解消することはできない。

 土人を自称しえぬことをひとが恥じる日が来るであろうか。

 

「うつは『心の風邪』ではなく『脳の肝硬変』」を読んで考えたこと

 うつ病は「心の風邪」とよく喩えられるけれど、むしろ「脳の肝硬変」と考えたほうが良い、というtogetterまとめを読んだ。なるほどな、と思った。

togetter.com

 まとめの中で指摘されていることだが、「心の風邪」という表現はもともと、「誰でもうつ病になりうる」という理念を共有するために使われていたはずだった。

 

 ところがこのフレーズにとって不幸なことに、日本の社会風土には「風邪ぐらい気合いで治せ」「風邪程度で仕事を休まれたらチームに迷惑がかかる」「ちゃんと体調管理していたら風邪になんかならないはず」という、〈職場連帯最優先型心身超克精神論〉が蔓延していた。

 したがって、「心の風邪」という喩えも、「気合いがあれば心の風邪になどならない」という、〈気合い精神医学〉に変換されることになりかねない。挙げ句の果てに、「気合い」は各自の自発性において盛衰するものだから、うつ病は自己の責任によるものとされ、真の病原であるストレスの発生源(職場や上司や受験や、社会制度や文化もろもろ)は隠蔽されてしまう。

 

 だから「心の風邪」という表現はやめて、うつ病とはいわば「脳の肝硬変」と考えるべきだ、というのが当該まとめの主旨である。「肝硬変」が過度のアルコールに晒され続けた肝臓が変質してしまう病であるように、「うつ病」とは過度のストレスに晒され続けることで脳の神経回路が変質し、その結果として気分障害が生じ健康な生活が立ち行かなくなる病である、と。

 

 

 じぶんがこのまとめを読んで思ったのは、うつ病にしろ他の病にしろ、「脳」によって説明されると多くの人がなんだか納得してしまう(納得したきぶんになる)のはなぜなのだろう、ということだった。

 

 「うつ病心の風邪なんだろ、じゃあ結局、当人の気合いややる気の問題じゃないのか」という暴論を吐いていたひとが、「そうか、脳の肝硬変みたいなもんなのか…」と考えを改めるとしたら、それはもちろんよいことだけれど、どことなくこっけいな気もする。

 

 しかし実際、自分を含めて多くのひとが、「脳」を持ち出されると納得してしまう。とくにCT画像を見せられたり、ナントカ神経細胞のナントカ受容体の感受性にナントカ遺伝子が関連している、などと言われると、印籠を前にした悪代官のごとく平伏してしまう。ああそうなのか、そういう病気なんだね、いままでわかってなくてごめんね、と。

 

 なぜ脳のCT画像で態度が変わるのか。これは不思議な喜劇でもある。日常生活ではほとんど眼にすることのない「脳」が、画像や科学理論として眼に見えるかたちにされる。見えないはずのものが見えるようになる、というところに、わたしたちの納得を強引に誘発するスイッチが隠されているようにもおもわれる。一方で現実の患者は目の前にそのまま現れ続けている、ということはしばしばあるのだけれど。

大きな蜘蛛は大きいのか

 下宿の部屋に大きなクモが現れた。驚いた。

 

 小さなクモはわりと好きだ。指先に載るようなクモが部屋の壁をそろそろと歩いているのを見ると、なぜということもなく嬉しくなる。

 

 けれども、さっき現れたクモは、子どもの手のひらくらい大きかったので、ちょっとぎょっとした。じっと見ようとすると、耳の奥がびりびり震えた。クモは気づかれたことに気づいたのか、脚を静かに折りたたみながら陰に隠れていった。あの滑るような、なめらかな脚の動きはわれわれほ乳類風情には真似できない。なめらかなというか、なまめかしささえ感じる。

 

 ところで、なぜわたしはあのクモを大きいと言うのか。ネコや犬よりずっと小さいのに。そしてまた、わたしの身体よりずっとずっと小さいのに。

 普段みるクモと比較して大きかったから、大きなクモだと言うのだろうか。たしかにそうだ。けれども、わたしは小さなクモをさほど見慣れているわけではない。小さなクモの小ささを心底知っているわけではない。おおざっぱに、小さいとか大きいとか言っているだけだ。まず始めに「大きい!」と感じてしまうにしても、その大きさや小ささといった感覚があまりに大雑把なら、その感覚にどれほどの意味があるだろうか。

 

 

 

幸福な宇宙人を想像するライプニッツ

ライプニッツ『弁神論』から。少し長いですが、美しい文章だったので引用します。

 

古代の人々にとっては、人が住めるのはわれらの地球だけであった。それでもなお彼らは対蹠地に恐れを抱いていた。それ以外の世界は彼らにとっては光り輝く球体であったり水晶球であったりした。今日では、宇宙にいかなる制限を加えようとあるいは加えまいと、地球の住人に劣らず理性的な住人が住んでいて当然であるような天体――われらの地球と同じ大きさのものもあればそれより大きいものもある――が無数にあるということを認めねばならない。もっともここからその理性的住人が人間だということにはならないが。われらの地球は一個の惑星でしかなく、太陽系の主要な6つの衛星の一つであるにすぎない。しかも、恒星はみなそれぞれが太陽であり、地球はそれらの太陽の内の一つの附属物でしかないのだから、われらの地球が可視的事物の中でいかにとるにたらぬものであるかは明らかである。ひょっとしたら、どの太陽にも幸福な被造物だけが住んでいて、そこに断罪されるべき者が多数いるなどと考える必要はさらさらないかもしれない。なぜなら、善が悪から引き出す効用を示すためには実例や見本はほとんどなくても十分だからである。また、至る所に星があると考えるだけの理由が一切ないのなら、星星の領域の彼方に広大な空間があるということにはならないだろうか。この空間が最高天であろうとなかろうと、その絶大なる空間は、星星の領域を含みつつ、常に幸福と栄光とで満たされることがあり得よう。この空間は大海のごときものとして理解できよう。ここには、星々の体系の中で完全な域に達した極めて幸福な被造物がすべて流れ込んできている。われらの天体とその住人についてはどう考えるべきであろうか。われらが地球は恒星間の距離に比べれば点のごときものでしかないのだから、これは物理的点よりも遥かに小さなものだということにはならないだろうか。こうしてみると、宇宙についてわれわれが知っている部分は、われわれが知らないとはいえ認めざるを得ない部分と比べればほとんど無に等しく、また、われわれに突きつけられた悪もほとんど無でしかないのであるならば、あらゆる悪も宇宙に存する善に比すればほとんど無いと同じだと言えよう。(ライプニッツ著作集6巻『宗教哲学』136-7頁、佐々木能章訳)

 

 

 気が遠くなるほど広い広い宇宙に、われわれの星は小さくぽつんと浮かんでいる。はるか彼方の惑星には、わたしたちよりずっと賢明で悪を知らぬ種族が多数生きているに違いない……。ひどく楽観的な考え方のようだけれど、地球の人間だけが他の幸福な宇宙人から切り離され、何千年も悪と罪にまみれているという想像は、どこかさびしくもある。

 幸福と栄光で満たされた大海のような宇宙の彼方の領域、そこに「完全な域に達した極めて幸福な被造物が全て流れ込んできている」という記述は、『幼年期の終わり』のラストにも似ている。

 自分はライプニッツのオプティミズム(最善世界選択説)は、神の存在を弁護しようとするあまりに、人間の悪や、それによって被る苦痛を過剰に過小評価するものだと考えていた。基本的には今もそう考えていて、あまり肯定的になれないのだけれど、この段落を読むと、どことなくイメージが変わった。現実の悪や苦痛を矮小化したり無視したりするというよりは、かなたの幸福な海に決して入ることのできない惑星の住民の哀しさを描こうとしているようにも思える。

石巻専修大学のこと

災害復興学会という学会の大会に来た。

初めての参加だったけれども、なんだか歓迎してもらったかんじで、素直に嬉しかった。

 

懇親会で、会場となった石巻専修大学の前学長という方にお話を聞いた。

石巻専修大学では、2011年の震災で6名の学生を失った、ということだった。

 

自分が昼間、へらへら発表していたとき、そうした事実を全く知らなかったし、気づかなかったし、考えなかった。こういうときはいつも「後から知る」ことになる。ああ、そうやったんかぁ…とだけつぶやいて、ことばが続かず、もういちど「そうやったんかぁ」とつぶやいてみて、やっぱりそれ以上の何にもならない。

 

どぷんと錨を投げ込まれたような気分になった。

 

臍帯(へその緒)は赤ちゃんと産婦のどちらに属するのか

 助産師の友人と、分娩時の臍帯(へその緒)の扱いについて話す機会があった。

 

 臍帯を切るのだけれど、そこに含まれている血が噴き出るため、クリップのような器具で臍帯を挟んでからハサミで切るのだそうだ。

 

 「臍帯をちょきっと切っても痛くないんですか?」と聞くと、「別に痛くはないでしょうねぇ」との答えだった。

 これはなんだか不思議なことで、わたしの指を同じように切ったら激痛だろうし、身体の内部で腱や骨が切れたりヒビが入ったりしても、当然痛い。髪や爪は切っても痛くないけれど、臍帯はそれらと違って、どくどく血が流れている。

 

 痛くないはずだけれど、赤ちゃんはちょっとびっくりしてるかもしれませんねぇ、と友人が言った。とすると、臍帯は母親ではなく、赤ちゃんの側に属するのだろうか。”へその緒はお母さんと赤ちゃんを繋いでいます”とよく言われるけれど、どこからが胎児で、どこからが妊婦なのか。

 

 この点について助産師の意見は明確で、胎盤で妊婦の血がフィルタリングされ、臍帯以降は妊婦の血とは別(別、というのも大雑把な表現になっちゃうけど)である、したがって胎盤と臍帯は赤ちゃんの付随物とみなされる、ということだった。もちろん厳密にクリアに分けられるものではないが、強いて分けるなら、ということだろう。

 なので、へその緒を切られてびっくりするのは、どちらかといえば産婦側ではなく赤ちゃん側、ということになる。

 

 けど、赤ちゃんにとっては、へその緒を切られることよりも、産道を通るほうがずっと痛くて苦しいはずですよ、とのことだった。それもそーやなー、とおもった。