しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

幸福な宇宙人を想像するライプニッツ

ライプニッツ『弁神論』から。少し長いですが、美しい文章だったので引用します。

 

古代の人々にとっては、人が住めるのはわれらの地球だけであった。それでもなお彼らは対蹠地に恐れを抱いていた。それ以外の世界は彼らにとっては光り輝く球体であったり水晶球であったりした。今日では、宇宙にいかなる制限を加えようとあるいは加えまいと、地球の住人に劣らず理性的な住人が住んでいて当然であるような天体――われらの地球と同じ大きさのものもあればそれより大きいものもある――が無数にあるということを認めねばならない。もっともここからその理性的住人が人間だということにはならないが。われらの地球は一個の惑星でしかなく、太陽系の主要な6つの衛星の一つであるにすぎない。しかも、恒星はみなそれぞれが太陽であり、地球はそれらの太陽の内の一つの附属物でしかないのだから、われらの地球が可視的事物の中でいかにとるにたらぬものであるかは明らかである。ひょっとしたら、どの太陽にも幸福な被造物だけが住んでいて、そこに断罪されるべき者が多数いるなどと考える必要はさらさらないかもしれない。なぜなら、善が悪から引き出す効用を示すためには実例や見本はほとんどなくても十分だからである。また、至る所に星があると考えるだけの理由が一切ないのなら、星星の領域の彼方に広大な空間があるということにはならないだろうか。この空間が最高天であろうとなかろうと、その絶大なる空間は、星星の領域を含みつつ、常に幸福と栄光とで満たされることがあり得よう。この空間は大海のごときものとして理解できよう。ここには、星々の体系の中で完全な域に達した極めて幸福な被造物がすべて流れ込んできている。われらの天体とその住人についてはどう考えるべきであろうか。われらが地球は恒星間の距離に比べれば点のごときものでしかないのだから、これは物理的点よりも遥かに小さなものだということにはならないだろうか。こうしてみると、宇宙についてわれわれが知っている部分は、われわれが知らないとはいえ認めざるを得ない部分と比べればほとんど無に等しく、また、われわれに突きつけられた悪もほとんど無でしかないのであるならば、あらゆる悪も宇宙に存する善に比すればほとんど無いと同じだと言えよう。(ライプニッツ著作集6巻『宗教哲学』136-7頁、佐々木能章訳)

 

 

 気が遠くなるほど広い広い宇宙に、われわれの星は小さくぽつんと浮かんでいる。はるか彼方の惑星には、わたしたちよりずっと賢明で悪を知らぬ種族が多数生きているに違いない……。ひどく楽観的な考え方のようだけれど、地球の人間だけが他の幸福な宇宙人から切り離され、何千年も悪と罪にまみれているという想像は、どこかさびしくもある。

 幸福と栄光で満たされた大海のような宇宙の彼方の領域、そこに「完全な域に達した極めて幸福な被造物が全て流れ込んできている」という記述は、『幼年期の終わり』のラストにも似ている。

 自分はライプニッツのオプティミズム(最善世界選択説)は、神の存在を弁護しようとするあまりに、人間の悪や、それによって被る苦痛を過剰に過小評価するものだと考えていた。基本的には今もそう考えていて、あまり肯定的になれないのだけれど、この段落を読むと、どことなくイメージが変わった。現実の悪や苦痛を矮小化したり無視したりするというよりは、かなたの幸福な海に決して入ることのできない惑星の住民の哀しさを描こうとしているようにも思える。