しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

堤防に腕を突っ込んで死んだオランダの悪ガキの話

 道徳と倫理の違いは何か、ということを考えたりする。

 

 小学校のときの「道徳」の教科書に、「水が噴き出していた堤防の穴に腕を突っ込んで町が水没するのを防いだが自分は死んでしまったオランダの悪ガキ」の話があって、なぜかその物語だけよく覚えている。

 

 たしかこういう筋だった。

 オランダのある町に素行の悪い少年がいた。ある夕、帰宅途中に、堤防に穴が開いていて、水が漏れ出していた。着ていた上着を穴に詰めたが水は止まらない。大人を呼ぶべきかと考えたが、このまま放置していたら町が水没してしまうかもしれない。少年が自分の腕を穴に突っ込むと、水漏れを止めることができた。水が冷たい。しかし逃げ出すわけにはいかない。翌朝、冷たくなった少年を町のひとびとが見つけた。かれが命を捨てて堤防の決壊を防いだのだスゴイ。みたいな。

 

 読んだ当時から、よくわからない話だった。

 そんな都合の良い形で「穴」が開くんだろうか。子どもの腕で止められるくらいの太さの穴なら、噴き出る水の量もそんなにたいしたことないんじゃないだろうか。けれど水圧ってあるんじゃないか。蛇口の水を手で止めるのも難しいのに、腕をつっこんだくらいで止まるだろうか。

 

 といったことをつっこむのは道徳の時間にやるべきことではなくて、要するに共同体のために殉死するのはエライのです、というお話だった。まあそういうタイプの善もたまにはあるかもしれないけど、オランダの堤防、そんな都合の良い形で穴が開くんだろうか。

 

 「堤防 腕 オランダ 少年」などで検索してみた。この話自体は創作だそうだ。しかしネットで出てきた物語の梗概は、自分が覚えているものと微妙に違う点がある。道徳教科書に収録するときに翻案したのか、自分の記憶違いか。翻案だったとしたら、それも興味深い。

 

 

なぜ就活と卒論が切り離されているのか。

 なぜ、卒論など書かねばならないのか。

 

 大卒者を採用する企業は、学生の卒論を吟味して採用を決めればよいのに、とおもう。理工系はそういったところもあるのだろうか。少なくとも文系では聞いたことがない。現状の制度では、新卒者の内定決定は卒論執筆より前だから、むずかしい。面接でちょっと話すくらいだろうか。

 

 こんな企業があってはいけないだろうか。採用希望者は、履歴書、エントリーシートに加えて、自分の卒論をその企業に送付する。採用担当者は、選考過程のどこかの段階で、提出された卒論を熟読する。良い論文なら、次の選考過程に進ませる。

 

 担当者は必ずしも提出された論文と共通する専門性を持っていなくてもよい。専門が違っても、執筆者が四年間真面目に勉強してきたか、どんな関心を持っているか、自社に適性ががあるか、といったことは読み取ることができる。

 

 この方法の欠点は、採用が大学卒業後になることである。この企業に入社したい学生は、大学を出てからこの企業に採用されるまでの期間、別の収入源を探さねばならない。この企業は、在学中に内定する他企業に優秀な学生を先に取られてしまう恐れがある。ただしどの企業もこの方式を用いればこの問題は消滅する。

 

 そんなうまくはいかないだろう。夢想です。ただ、大卒者を採用するけれど卒論はたいして読まない、というのは、いったいどういうことなのだろうと思う。企業が(とくに文系でも)卒論をちゃんと読むようになれば、卒論の執筆も、すこしはしんどさが軽減されるのではなかろうか。いや、逆にもっとしんどくなるだろうか。

 

 (実は就活のことほとんど知らずに書いたので、いやいや当社では選考に卒論重視してますよ、みたいな話があったら、教えていただけるとさいわいです)

さいきん読んだものから:花崎皋平『静かな大地』

 近現代のアイヌに対するシャモ(和人)の侵略と支配の歴史を少しずつ学ぶうちにわかってきたことのひとつに、日本国家の側は、アイヌ民族への同化政策が完了したとの総括に立って、台湾の高地民族への同化政策に応用をはかっていたということがある。

 戦前、戦後をつうじて北海道史の最高権威として有名な高倉新一郎北大名誉教授の主著で名著の評をえている『アイヌ政策史』は、たしかに資料の博捜の上に立った、基礎のしっかりした研究書であるが、昭和17年(1942年)初版の「第1章 序論」には、次のように「我が国の歴史」が総括されている。

「我が国の歴史は、是を一面より見れば、建国以来絶えざる膨張の歴史であり、又最も広義に於ける大和民族植民発展の歴史であった。殊にその飛躍は近代に於て著しく、明治28年には台湾および澎湖島を領有し、同39年には南樺太を獲得し、43年には更に朝鮮を併合して、是を台湾領有以前に比較すれば、面積に於て約30万方粁76・6=を増加し、従って、是に伴ひ約1720余万の半島人、約370万の本島人並びに所謂台湾高砂族、1520余の樺太土人を新たなる同胞として迎へたが、これら原住民に対する政策の如何は、常に彼等の生活を左右するのみならず、我が国の植民地経営の成敗に至大の関係があるのである。」

 この植民地経営と対原住民族政策の研究はまだ日が浅く、欧米にその範をとる傾向がつよいが、この著者の考えでは、「我が国」の広義における植民ないし植民的活動は、「実に建国以来の現象」であって、原住民政策には多くの経験をもっている。とくに東北・北海道の蝦夷に対する反乱鎮圧と同化の経験は貴重であり、その政策史をかえりみることは、各種の植民地類型に応じた原住民政策の型を具体的に示し、どうしたらよいかについての法則や原則の「発見」に役立てることができる……。

 高倉新一郎氏が、かつてのこの研究理念を、戦後、根底から反省して再出発した跡は見られない。(348-349頁)

 

 花崎皋平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』、岩波現代文庫、2008年。幕末、「蝦夷地」を六度歩き渡り、松前藩によるアイヌ弾圧を克明に調査した松浦武四郎の足跡をたどる物語。 

 日本のサバイバー研究/トラウマ研究は、常に首都から離れた周縁部から生まれている。三井三池炭鉱、水俣、広島、長崎、沖縄、八重山、そして北海道。国家の中心部で組み上げられた政治的な論理が、中心から空間的・意識的に離れるにつれ、収奪と暴力のかたちをとって具体化する。末梢部分でちりちりと潰されてゆく悲鳴を聞き取ろうとするひとが、なぜか突然生まれる。松浦武四郎はそのような人間のひとりであり、日本で最初のサバイバー研究者かもしれないとおもう。

 引用した部分は松浦武四郎の伝記から少し離れて著者が考察している下りだが、じぶんは強い衝撃を受けた。アイヌへの「同化政策」(実際には「根絶作戦」と言ってもよいくらいなのだけれど)が、その後の帝国の植民地政策における理念型を提供するのだ、という戦前の歴史家の提言である。植民地政策にあたった機関や人物が松前藩の政策を参考にしたかどうかは別の研究が必要だと思うけれど、少なくとも、膨張政策を「列島」内におけるアイヌ同化政策の「成功事例」の反復とみなす思考があった。

リスニング・テストの恨み

 中学・高校のころ、英語のリスニングのテストがとても苦手だった。いまも外国語の聞き取りに苦手意識があるけれど、このテストのせいではないかと半ば思っている。

 

 当時わたしが課されたリスニング・テストは穴埋め式だった。短い文の中の一語が空欄になっていて、CDで再生したネイティブの声を聞きとって空欄を埋めることになっていた。

 

 試験用紙に

 (1) Mike wants to (   ) a radio.

と書かれていて、CDからは

 まいくうぉんつとぅばいあれいでぃおう

と音声が流れてくる。それを聞いて空欄に「buy」を書き込む、という形式である。

 

 わたしはこれがとても苦手だった。聞き取ろう、聞き取ろう、と緊張すればするほど、なぜか耳が塞がってしまうようなかんじになって、正答がわからなくなった。

 音声の再生は2回繰り返されることもあった。1回目でわからず、ヤバイぞと思って2回目の再生で絶対聞き逃さないよう集中力を高めるのだけれど、やっぱりうまく理解できなくて絶望的な気持ちになる。そうなると、続く第二問、第三問も雪崩式にわからなくなる。

 

 中高六年間と大学受験で散々これに凹まされて、英語のリスニングにきわめて大きな苦手意識を持った。ちょっと大げさだけれど、植え付けられた、と言ってもいい。

 

 大人になって、英語圏の国へ行かせてもらう機会が何度かあった。そこで気づいたことは、文全体というか、発話の流れや文脈を把握しようとしたほうが、かえって単語が聞き取れてゆく、ということである。ひとつずつの単語に集中しようとすると、やっぱりわからなくなる。

 

 言語とか会話といったことは、そもそもそういうものだろうなぁ、と感じた。日本語での会話であっても、単語を聴きとっているというよりは、「聴き逃しながら、たまに引っかかって反芻している」と表現したほうが正確かもしれない。そして本当にある重要な語を聞き落としてしまったことに気づいたなら、「えっ ナンテ?」と聞き返すか、わかったふりをしてごまかすことができる。それが人間の耳の自然な仕組みであって、「穴埋め式」はこの仕組みからかけ離れた形式だったのではないかと思えてならない。そもそも、「穴埋め式」で会話することは人類には不可能だ。

 

 このことを彼女に話したら、自分もまさにそうだった、と言われた。

 

 彼女がTOEICの試験で編み出した秘儀を教えてもらった。それは、リスニング中に鉛筆を持っていない方の手で消しゴムを握りしめるのだという。要するに、身体の集中を分散させて、空欄に過度に集中しないようにするのだろう。たいへん理に適った方法だと思う。

いま読んでいる本から: 金時鐘『朝鮮と日本に生きる』

たしかに不器用な私ではありましたが、選り好みだけはしない私でした。何事につけ人一倍好奇心が働くのです。薬売りが客寄せに奇術を見せびらかしています。もう少しで卵が孵えるという口上を信じて、日がな一日ひよこが孵えるのを待ちとおした市の日がありました。しかも一度や二度でなく、三度や四度も。客を集めては卵をネルの袋に入れ、待っている間に効能の説明をし薬を売り、客が散じるとまたた初めから目の前で卵が孵えると客を集め、いつになったら見られるのかとまたたしかめに市に行きます。それでも私の好奇心は疑うことを知りませんでした。あのひよこはさぞ、袋の中できゅうくつだろうなぁとずっと思っていたものでした。(38頁)

 

 卵はいつ孵化するんだろう、ひよこは袋のなかでどうしているんだろうという好奇心。やさしい。

 

 小学校で朝鮮語をうっかり使うと教師にひたすら殴られる(後には児童同士で殴りあう)という皇民化教育が本の序盤で紹介されている。

 いわゆる「トラウマ」をめぐる議論では、つねに「トラウマ」「暴力」「ことば」が三つセットにされるのだけれど、この場面ではその三角形があまりに単純に実現?されていて、どうしようもない気分になる。何の工夫もなく、ただ殴るだけなのだ。殴って、土地と祖先のことばを奪い、宗主国の国語を移植する。殴る。ただ殴る。知性は要らない。

 

 けれども、著者にとっては、そうして覚えた日本語が自分の知的な第一言語になり、その後もずっとそうだった。

昔のひとは今より頻繁に気絶していたのではないか

 昔のひとは今より頻繁に気絶していたのではないか。精神医学史を読んでいると、登場する人物がやたらと「気絶」する気がする。とくに、強いショックを受けたときに気絶している。あるいは、意識がフワーとなって何かに憑依されたり、予言したりする。

 

 「昔の人」というのもきわめてアバウトな言い方だけれど、すくなくとも自分自身は「衝撃的な知らせを聞いてショックのあまりその場で気を失ってしまうひと」にこれまで出会ったことがない。

 

 しかし少し古い時代の映画などでは、そういったシーンがわりと多い気がする。気がする、と書いたのはいま具体的な例があまり思い浮かばないからだけれど、たとえば市川崑黒い十人の女』(1961年)に、主人公の妻がピストルで主人公を撃ち殺したとき(実は空砲とトマトを使った狂言)、居合わせた愛人のひとりが気絶するというシーンがある。

 

 映画で気絶のシーンがあるからといって、本当にそのころみんな気絶していたかどうかは、わからない。ただ、現代の映画ではほとんど見られない演出であることも確かだ。古い時代の映画に気絶のシーンが含まれるのは、「気絶」がそれなりにリアルな出来事だったからだろう。

 

 映画で気絶するのは、たいてい若い女性か、中年の女性だと相場が決まっている。しかしフィリップ・アリエス『死を前にした人間』には、アーサー王が仲間の死を悼んで臣下の前で激しく嘆き、ついに気絶してしまうという場面が紹介されている。男も気絶していたのだ。

 

 気絶には、おそらく、衝撃的な体験を受け入れ切る前にいったん意識をフリーズさせるという役割があるのだろう。過電流が回路を焼ききる前にブレーカーが落ちて回路全体をシャットダウンさせることに似ている。気絶することによって、衝撃を「分割払い」で受容することが可能となるのかもしれない。気絶せずずっと目を見開いて、受け止めきれない体験を無理にまるごと心身で受け止めてしまうと、いわゆる「トラウマ」となる。(ただし気絶すればトラウマにならない、ということではない)

 

 現代人はほとんど気絶せず、憑依もされず、白昼夢やお化けを見ることも少ない。そういった体験が多すぎると、精神病の疑いがかけられてしまう。はっきりとした、クリアな、途絶えることのない、強い「意識」が正常で、それ以外が異常とされてきた。

 けれど実際は、ある程度ぼんやりとした、すぐに気絶しちゃうような意識の在り方が「普通」だった時代のほうがずっと長いのではないか。

読んでいるものから:辺見庸『不安の世紀から』角川文庫、1998年

 そのとき私、非常に不思議に思いましたのは事件の当初、最初のころなのですけれども、さして大きなパニックはなかったのですね。静かな現場といってもいい。あのサリンというものがまかれた直後に現場にいた人たちはどういう意味かわからなかったわけです。起きている事がらの意味が、です。サリンとは知らず、大事件とも必ずしも考えていない。現場はまだ命名されていない、つまり意味があたえられていないのですね。現場では通勤者が大多数なのですけれども、通勤者は通常どおり、月曜日でしたが、それぞれの職場に出勤を急ぐわけです。被害者たちは横たわったり、壁に背を預けたりして非常に苦しんでいるにもかかわらず、です。

 私が目撃したのは、大多数の通勤者たちが、苦しんでいる被害者たちを跨ぐようにして通勤を急いでいる姿だったのです。(30-31頁)