しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

りっぱなことを書きたいわたし

気づくといろんなひとがりっぱなことを書いている。

揶揄や皮肉ではなくて、ほんとうに、いろいろなひとがいろいろなりっぱなことを書いている。

積み重ねられた知見であったり、研ぎ澄まされた問題意識であったり、社会で真に求められていることを正確に認識するものであったり、引き締まった覚悟によって書かれたものであったり、軽妙な文芸的の表現であったり、いろいろなのだけれど、どれもりっぱなことで、りっぱな文章であるとわかる。

その書き手は自分が少し会ったことのあるひとであったり、名前だけは存じ上げている有名な方であったり、よく知らないがおそらくその業界ではりっぱな立場のひとであったり、あるいはまったくよくわからないしこんご会うこともないだろうひとであったりする。ともかくもそのひとたちは、りっぱなことを書いている。

 

それにくらべると自分はなにもりっぱなことを書いていないし、こんご書くもくろみも無いようである。彼我の差というものをかんじる。

そもそもじぶんはりっぱなことを書けと直接命じられたわけでもないのに、なぜそのような差を意識して、自己を意識するのであろうか。それはやはり、りっぱなことを書きたいという欲や見栄のようなものが何らかの働きをおよぼしているのだろう。