しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

トートロジー校則

 

 この答弁は「ルール」の意味を考えるうえで面白いなと思った。

 なぜ校則でツーブロックを禁止するのかという問いに対し、教育長が「生徒が事故・事件に遭うのを防止するため」と答えている。ツーブロックにすれば事故・事件に遭いやすいことを示すエビデンスはあるのかと質問者が切り替えしている、という動画。

 

 わたしが面白いと思うのは、ツーブロックにすると事故・事件に遭いやすいのだとしたら、それはツーブロックを校則で禁止しているからだろうということだ。

 

 教育者の実感や考え方の習慣としては、「ツーブロックにすると事故・事件に遭いやすい」という命題はそれなりに間違っていないのかもしれない。ツーブロックは「イキっている」「いちびっている」ことを表示するサインとして解釈されやすい。そういった身なりをして繁華街をウロウロすれば、別の不良(この言葉も最近聞かなくなりましたな)に絡まれるかもしれない。そうした方面の付き合いが増えれば、いわゆる「半グレ」や暴走族や暴力団組織との接触も増えるかもしれない。それを未然に防ぐために、ツーブロックという「イキりサイン」を禁止するという考え方である。

 だが、ツーブロックが「イキりサイン」として解釈されるのは、それが校則で禁止されていることが地域社会で共有されているからだ。校則で禁止された髪型を敢えて選択することに「イキり」の本質がある。

 ここにはトートロジーがある。なぜツーブロックを禁止するのか→ツーブロックは危険を招くからだ→なぜツーブロックは危険を招くのか→ツーブロックは禁止された髪型だからだ、という論理である。

 仮に動画の議会で教育長が「ツーブロックでも別に構いませんよ、わたしも明日からツーブロックにします」と宣言したら、その途端にツーブロックは「イキりサイン」としての効力を失う。むしろオッサンが選択するダサい髪型として認知されるかもしれない。したがって、生徒を事故・事件に巻き込ませたくないのなら、ツーブロックを全面解禁すればよい。

 反対に、「規律」に従順であるのサインとして認知されている坊主頭を校則で禁止してみたらどうなるだろうか。坊主頭がイキりサインとして生徒たちに選択され、それがイキり髪型であるがゆえに禁止するのだというトートロジーが完成する。

 つまりツーブロックでも坊主頭でも、禁止するがゆえに禁止するという構造は成立するわけで、管理する教師と逸脱したがる生徒が必要とするのはこの構造それ自体なのである。

 

 そもそも髪型についての規則をすべて撤廃し、髪型を気にすることをやめてみたらどうなるだろうか。教室はたいそうカラフルになるだろう。坊主頭ありモヒカンあり長髪ありピンクあり緑あり銀髪あり黒髪あり、といった風景が現れるだろう。そしてモヒカンだろうがピンク髪だろうが、逸脱のサインとしても従順のサインとしてもみなされない。ただ教師と生徒がそこにいるだけになる。

 だが多くの教師と一部の生徒は困るだろう。ひと目でわかるサインが無ければ、教師は「逸脱の傾向」を持つ生徒を発見できなくなる。教師は逸脱のサインを別のものに探し求めねばならなくなる。髪型を逸脱の基準とすることで、規律維持のコストを減らすことができる。要するに「わかりやすいサイン」こそが必要なのであって、そのサインの媒体は髪でも靴下でも良い。髪型を校則で定めること自体は馬鹿馬鹿しいことだと実は教師たちも気づいているのかもしれない。

 だがここにも同様のトートロジーがある。教師が「逸脱のサイン」を必要とするのは、規律から外れる者を見つけ出すためだ。規律から外れる者を早期発見しなければならないことの理由は、それを怠ると規律が崩れてゆくからだ。では、なぜ規律を維持しなければならないか。規律が無ければ規律ある行動や状態が保たれないからだ。ところで規律ある行動や状態とそうでない状態を分かつものは何か。それは規律である。つまり規律という観点を導入することで規律が必要となり、逸脱が生じ、逸脱を防ぐために「逸脱のサイン」をめぐる戦いが生じる。規律は規律のために必要なのである。したがって、そもそも規律自体を導入しなければ、規律も無ければ逸脱も無い。