しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

書くことの格率

じぶんが時代にほとんどついて行けていない、という感触がある。

ここでの「ついて行けていない」というのは、最新のニュースがわからないとか、先端的な流行が理解できないとか、目新しい考え方に慣れないといったことではない。おそらくそうした流行にぴりぴりして、表面にあるものを舌先でざらざら舐めては次の皿を要求するといったことをしていては、余計に頭がしぼんでゆくだろうとおもう。そういうひとは、とくにネットにはおおい。

そうではなくて、もっとたいせつなもの、なんらかのかたちをとって世の中にたしかに現れているけれども、それはようやく今やっとかたちを得てわたしの耳目に接したにすぎず、そのかたちの裏には深い深い流れがかくされているような、それ。そこに静かに触れてゆくための静かさや謙虚さといったことが、日々うしなわれているような気がする。

それはおそらく、お給料を毎月うけとっている、ということと無関係ではないとおもう。それは大事なことで、なおかつ、おそろしいことだ。お給料を毎月うけとることで、人間的であることができる側面と、人間性をすこしずつ削り取られる側面がある。そうして、ものごとのかたちがわからなくなり、書けなくなる。そういう危険にやっと気づく。

 

時代、ということばを信用しないこと。時代ということばを定義できるひとはすくない。定義せずにつかうひとはおおい。時代ということばの意味をふやかしたまま、いまの時代はこれこれだ、かつての時代はこれこれだったと語るひとはおおい。ところがそれは、真っ暗な部屋で黒い紙に黒いインクであれこれ書いているようなもので、まぐれあたりに正解を書いていることはあっても、書いたものを読み返すこともできない。時代について描こうとしてかえってその中にはめこまれているだけになる。

おそらく古典的な考え方では、時代の意味をよく聞き分けよく見抜くためには、人間性がじゅうぶん休養を取られてのびのびしていなければならない。けれども他方では、いまの時代では何かを書こうとするまえに、まずそこそこ働かなければならない。