しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

時代の実感

 麻原彰晃死刑執行の報に触れて、20代前半のひとたちが「地下鉄サリン事件って阪神淡路(大震災)と同じ年やんな」と話していた。いずれも1995年なので、正しい。ところがそのあと「酒鬼薔薇聖斗事件ってその後やったっけ」「いや、前でしょ」という会話をしていたので、いやいやあのね…と会話に割り込みそうになった。事件は1997年なので、大震災と地下鉄サリン事件の2年後ということになる。

 わたしは「少年A」とほぼ同学年で、事件が起きたとき神戸市内に住んでいた。それゆえ、ということではないけれど、震災も連続殺傷事件も、奇妙に身近なものという感覚で受け止めざるをえなかった。サリン事件は東京の出来事だったけれど、テレビの生中継を自宅で見ていた(平日だったが、たまたま風邪で学校を休んでいた)。

 だからどの事件がどの事件の後なのかということは、知識以上の、歴史的実感としてある。これは頭でいちいち検討して手に入れる感覚ではない。そのとき生きていて、自分自身のリアルタイムの感覚の積み重ねによって析出されたものである。当時の実感をそのままありありと再現することはできなくても、「後、先」の感覚は、推論ではなく、より当たり前のものとして把握することができる。

 

 しかし「連合赤軍あさま山荘事件」と、「大阪万博」のどちらが先なのかと聞かれたら、わたしはすぐに答えられない。いまWikipediaで調べたら、あさま山荘事件は1972年、大阪万博は1970年だった。わたしの両親の世代ならこの前後関係を間違えることは決してないだろう。

 もしわたしがそれぞれの発生年を記憶していたなら、正答できる。しかしそれは頭の中にある「1972」と「1970」という年号を比較して答えただけであって、実感としての「後/先」によるものではない。この後先の実感はまさしく実感であるので、その後に生まれた自分がどれだけ歴史書や当時のひとの証言を聞いても、決してゼロから醸成することはできない。

 わたしは「あさま山荘事件」「大阪万博」「新幹線開業」「東京オリンピック」「アポロ11号の月着陸」などをひとまとめに「なんかあそこらへんの時期の出来事」としてぼんやり理解している。加えて、アポロ11号の「月の石」が大阪万博で展示されていたということは知識として知っているので、月着陸が大阪万博より先なのだなということを推論できる。しかしそれは、「あのときたまたま入院しとってな、病院のテレビで月面着陸の瞬間見よってんけど、入院患者がようけテレビの前に集まっとって、じぶんはその瞬間をなかなかちゃんと見れへんくて」というわたしの父の体験から醸成される「後・先」の実感とまったく異なる。(ただ、例えばこうした近親の者の証言を通じて、直接体験したゆえの実感ではないが、歴史の教科書から学んだだけの知識でもない、両者の中間に位置する仮想的実感を持つことはできている。)

 

電車止まってから途中休講にしても帰宅困難学生増やすだけやねん

大学(昨日)「暴風警報か特別警報出たら休校やで」

 

大学(今朝)「暴風警報も特別警報も出てへんし阪急電車動いてるから授業するで」

 

大学(3限中)「阪急宝塚線止まったから4限以降休講にするわ、学生は気をつけて帰ってな」

 

いやいや、なんじゃそりゃ。

帰宅手段なくなる直前まで登校させといて、帰れなくなってから休講って。どうやって帰るねん。公共交通止まるの、朝の時点でだいたい予測できるやろ。大学が自分から帰宅困難学生増やしてどないすんねん。

 

神戸や京都から通学通勤してる後輩や先生も多いので、大学の対応はめっちゃ腹立ちます。

 

(とりわけ大都市にある企業や学校の防災・災害対策は「投機型」であるべき。「被害が拡大したら対応」ではなく、「被害が拡大すると仮定して先行対応」でなくてはならない。当然、空振りに終わる場合もある。それでよい。非常食を買い込んだあと災害が起こらず賞味期限が切れたからといって、お金を無駄遣いしたと考えるひとはいない。それと同じ)

 

大学の防災対策についての、少し古いエントリ:

大学校舎の災害避難訓練がけっこう無意味っぽかった(らしい) - しずかなアンテナ

俺よりウザいやつに説教されないように説教してやる

俺がいまおまえにウザい説教をするのは、世の中には俺よりもさらにウザい説教をするやつがいるからで、おまえが今後世の中に出てそういうやつに出会ったときに説教されないように、いまあえて俺が説教するんだ、という論理で説教をするひとが一定割合いるのだが、出会いが予定されている「さらにウザい説教をするやつ」もやはり「俺がいまおまえにウザい説教をするのは、世の中には俺よりさらに…」という論理で説教を正当化するので、この「説教チェーン」に連なる全員が一斉に説教をやめればチェーンそのものが消失するはずなのだ。

 

このチェーンを順にたどっていけば最後には最強のウザさを誇るチェーンの最終端、あらゆる説教の始祖始原の存在に出会えるかもしれない。アリストテレスの「不動の動者」みたいな。自己の存在理由を他に頼らない、真の実体としての説教屋。あらゆるウザさの根源、アルファにしてオメガ、「いままで説教を受けてきたのはあなたに出会うためだったのか…」と身を震わすような。出会いたくはない。

メリーポピンズになっている

阪急梅田駅からJR大阪駅へつながる連絡通路の途中に屋外エスカレーターがある。

きょうは雨が降っているので、傘を差したままエスカレーターに乗った。


傘を差して、エスカレーターに立ってゆっくりと地上に斜めに降りてゆく。

あ、これ、『メリーポピンズ』の登場シーンやんとおもう。

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バンクス家の玄関に並ぶ家庭教師たちが強風で吹き飛ばされてゆく。日傘を差したメリーポピンズがゆうゆうと空から降りてくる。映画ではこんな登場シーンが描かれる。


ワシはメリーポピンズになったんやなあとおもう。


『メリーポピンズ』という作品の良いところは、なぜメリーポピンズが魔法を使えるのか全然説明されないこと。血筋も魔法学校も修行も家庭環境もトラウマも運命も何も無い。過去は語られない。とにかくメリーポピンズは最初から魔法が使える。『ハリーポッター』や『指輪物語』のように眉間に皺を寄せない。世の中それでよいとおもう。


『隠し剣 鬼の爪』終盤の提灯の隠喩

映画『隠し剣鬼の爪』(原作藤沢周平、監督山田洋次、2004年)の終盤に、主人公・片桐(永瀬正敏)の家を、片桐の旧友・狭間の妻が訪れるシーンがある。

片桐は藩に背いた狭間(小澤征悦)を藩命で討たねばならない。その前夜に、狭間の妻(高島礼子)が片桐の家をひとりで訪れ、夫の助命を嘆願する。

夫を逃してくれるなら何でもする、この肉体を好きにして良い、などと狭間の妻は言う。片桐はそれに驚き、断り、狭間の妻に引き返すよう言う。片桐は「据え膳食わぬは~」といった下品な考えを起こさず、あくまで狭間の妻に人間同士として対面し、身体の交わりを持つことなく帰らせる。観客に、片桐の人間としてのあるべきまっとうさ、ひねくれていない人格が際立たされる。

(たぶんたいていの男は、「高島礼子が真夜中にひとりで訪れて「なんでもしますから…」とか言うんやで、俺なら…」と心の中で考えるのだ。)

 

ただこのとき、気になるシーンがある。帰らせる直前、玄関の土間で、片桐が狭間の妻の提灯に火を入れ直してやる。

この動きがどうにも性的な隠喩ではないかと思えてならない。

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「火いれるさけ、提灯」。狭間の妻から提灯を受け取る。

 

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提灯の笠を下にたたむ。

 

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中のロウソクを露出させる。

 

この提灯は男性器なのかもしれない、とおもった。

この一連の動作はまずは片桐の優しさを表す。けれどもそれは従前の会話ですでに十分表現されている。江戸時代の生活をリアルに表現してもいる。けれどもわざわざこの場面でやる必然性は無い。だから、このシーンは何かの理由があって挿入されているんじゃないかとおもう。

 

男性器の隠喩だとしたら、それはどんな意味をもつのだろう。

(解釈1)提灯は片桐の男性器である。片桐は口では善良なことを言っているが、同時にかれの下半身は性的な関心・可能性に反応している。そのことを示している。

(解釈2)提灯は片桐の男性器である。提灯の受け渡しは、狭間の妻と片桐の精神的な情交を表現している。

(解釈3)提灯は夫である狭間の男性器である。

(解釈4)提灯は片桐の男性器でも狭間のそれでもなく、全般的な性的なイメージの予告である。このあと狭間の妻は御家老の堀様(緒形拳)の家にも助命嘆願にゆくという。堀は片桐と対照的な人物で、この映画の悪役である。狭間の妻と堀の情交がこの時点ですでに匂わされている。

 

いろいろと考えてみたけれど、どれもしっくりこない。2と4がそれっぽいかなともおもう。

 

隠し剣 鬼の爪

隠し剣 鬼の爪

 

 

同居者を殺害してしまった。

同居者を殺害してしまった。一瞬迷った。けれども殺意に身を任せた。

この居心地の良い部屋に勝手に乗り込んだ向こうが悪いのだ。

 

わたしの行為は本当に衝動的だっただろうか。

いま、自問している。

 

さる筋から先日買い求めた凶器を手にした。

狙いを外さないよう、付属品の細いノズルを取り付けた。わたしは落ち着いていたはずだ。その動作は拳銃にサイレンサーを取り付けるのに似ていた。

 

わたしたちはわかりあえない。この空間はわたしのものだ。

共存の道はない。心の中で、相手への憎しみと謝罪がごちゃごちゃになっていた。

トリガーを引いた。

 

よく効いたらしい。そいつはひっくりかえって、立てなくなった。

完全に息絶えたと思ったが、ときたま手足をひくひくさせている。その姿がまたおぞましい。

 

断末魔の苦しみを味わっているのだろうか。人間にとっては10分ほどの時間でも、昆虫にとっては数週間分の体感時間かもしれない。

いや、やつらには苦しみや時間の感覚など無いのかもしれない。それはわからない。ただ、死にかけているすがたにはどうしても憐れみを感じてしまう。

毒ガスをもういちど噴霧してやろう。

 

遺体を処理したあと、空気を入れ替えるために窓を開けた。

小さいけれど心地よいわたしの部屋。そしてやはり小さいけれど住心地の良い、わたしの町。もちろん町は部屋とちがってわたしの占有物ではないが、大切な居場所だ。この国、この星に生まれたことに満足を覚える。黒光りの六本脚も、わざわざこの部屋にやってこなければ、ほかの場所で過ごせばよかったのだ。

 

そのようなことをぼんやりと考えながら見ていた夜空に突然にゅっと巨大な筒が現れた。大気を突き抜けてきた、無造作なただの筒。どこから伸びてきたのか、反対の端は見えない。なんだこれは、とあっけに取られて見ていた筒先から突然しゅううと白い霧が吹き出して、体が…動かな……

 

……しばらく目を話したすきに、気味の悪い2本脚のぬめぬめした生き物が部屋の隅で繁殖していたようだ。一瞬迷った。けれども殺意に身を任せた。この居心地の良い部屋に勝手に乗り込んだ向こうが悪いのだ。多細胞生物の分際で、自分は知能を持っていると信じ込んでいるらしい。わたしたちはわかりあえない。この空間はわたしのものだ。

共存の道はない。心の中で、相手への憎しみと謝罪がごちゃごちゃになっていた。トリガーを引いた。

 よく効いたらしい。そいつはひっくりかえって、立てなくなった。完全に息絶えたと思ったが、ときたま手足をひくひくさせている。その姿がまたおぞましい。

 断末魔の苦しみを味わっているのだろうか。わたしたちにとっては10分ほどの時間でも、哺乳類にとっては数週間分の体感時間かもしれない。

 

 

 

眉間に皺を寄せない

眉間に皺を寄せないこと。

なにかを考えるときも、悩むときも、不機嫌なときも、そうした感情に皮膚をすべて預けないこと。

恐ろしい痛みや悲しみや苦痛の場合には、体のほうが全身で皺を作ろうとしているので、眉間が固まるのもやむをえない。そうした場合は別として、眉間に皺を寄せないこと。環境から均等に距離を保つこと。